《ガルミナの福音書》エチオピア最古のキリスト教写本の登場

1. 発見と概要 エチオピア最古のキリスト教写本の登場


ガルミナの福音書(Gārimā Gospels)は、東アフリカ・エチオピアの北部、ティグレ州のアッヌバ(Ānubā)にあるアッバ・ガルミナ修道院(Abba Gārimā Monastery)に伝わる一対の福音書写本です。その存在は外部世界に長く知られていませんでしたが20世紀後半、特に2000年代に入ってからの学術調査により、その比類なき重要性が明らかになりました。

従来これらの写本は10世紀から11世紀頃の作と推定されていました。しかし1990年代後半から2000年代初頭にかけてオックスフォード大学のエチオピア研究学者ロビン・マクリーンや保存科学者らのチームが調査を実施。写本の材料を放射性炭素年代測定法(C14測定)にかけた結果、考古学界に衝撃が走りました。分析の結果、ガルミナ1(Ms. 1)は530年から660年頃、ガルミナ2(Ms. 2)は390年から570年頃に製作された可能性が極めて高いことが判明したのです。この年代確定はガルミナの福音書をエチオピア最古、かつ世界最古クラスの完全な彩色写本として位置づける画期的な発見でした。

2. 二つの写本 ガルミナ1とガルミナ2の考古学的特徴


ガルミナの福音書は二つの写本から成り、それぞれに特徴があります。

· ガルミナ1 (Ms. 1)
· 形態と構成 羊皮紙(パーチメント)にコプト語(エジプトのキリスト教文化圏で用いられた言語)の影響を受けたエチオピア文字(ゲエズ)で記されています。176葉(352ページ)からなり四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を含みます。
· 考古学的至宝 その装丁 ガルミナ1の最も特筆すべき点はオリジナルの木製の表板(カバー)がほぼ完全な状態で残っていることです。これは写本学において極めて稀な事例です。通常、写本は内容(テキスト)のみが重視され、その「容器」である装丁は時代の流れの中で取り替えられたり失われたりすることがほとんどです。このカバーは当時の製本技術、木材の加工技術、そして写本がどのように扱われ保存されてきたかを物語る、まさに「生きた考古資料」です。カバーには十字架や幾何学文様が刻まれており初期エチオピア・キリスト教美術の様式を窺い知ることができます。
· 挿絵 福音書記者の肖像画などのミニアチュール(細密画)が含まれており、その様式は、ご指摘の通り初期ビザンティン様式の影響を強く受けています。人物の描写、衣襞の表現、色彩(金や赤の使用)などが同時代の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の美術と共通する要素を持っています。これはエチオピアが早い段階から地中海世界のキリスト教文化圏と緊密な交流を持っていたことを示す物的証拠です。
· ガルミナ2 (Ms. 2)
· 形態と構成 こちらも羊皮紙にゲエズで記されています。ガルミナ1よりもやや小型で128葉からなります。
· 考古学的意義 C14測定の結果、ガルミナ2はガルミナ1よりもさらに古い年代を示す可能性が出てきました。これが正しければガルミナ2は現存する世界最古の完全な彩色キリスト教写本という称号を得ることになります。ここでいう「完全な」とはテキストが欠落しておらず、また製作当初の彩色画(イルミネーション)がそのまま残されていることを意味します。例えば有名な「シナイ写本」(Codex Sinaiticus, 4世紀)や「ヴァチカン写本」(Codex Vaticanus, 4世紀)はより古い写本ですが、これらは装飾がほとんどなく、また完全な形で現存するものはごく一部です。その点でガルミナ2はテキストと美術の両面が完璧な状態で残る考古学的・美術史的にも比類のない遺産です。

3. テキストの差異が示す歴史的深度


「ガルミナ1とガルミナ2はテキストが大きく異なる」点は写本学上、極めて重要な観察です。両写本は物理的にはほぼ同時代(あるいはガルミナ2が少し古い)に製作されましたが、その本文内容(福音書の文言)に相違点が見られます。

この現象は両写本が単一の共通原典から直接コピーされたものではなく、それぞれが別々の、そしてより古い写本系統を継承していることを強く示唆しています。つまりガルミナ写本が製作された5~7世紀の時点でエチオピアには既に複数の福音書テキストの写本系統が並行して存在していたことになります。これは福音書のゲエズ語への翻訳作業が従来考えられていたよりも数世紀はさかのぼり、おそらく4世紀から5世紀初頭には完了していた可能性を意味します。

エチオピアがキリスト教化したのは4世紀半ばアクスム王国のエザナ王の時代とされています。ガルミナ写本のテキストの多様性は王国が公式にキリスト教を受容した直後からシリアやエジプト(コプト教会)などの初期キリスト教中心地から聖書テキストが迅速かつ複数の経路でエチオピアにもたらされ写本製作の伝統がすぐに根付いたことを物語っています。

4. 歴史的・文化的文脈 アクスム王国と交易路


ガルミナ写本の存在を理解するには当時のエチオピアを支配していたアクスム王国の繁栄に目を向ける必要があります。アクスムは紅海に面した国際的な交易国家でありローマ帝国(後にビザンツ帝国)、ペルシア、インド、さらには遠くスリランカとも盛んに交易を行っていました。この交易路を通じて物質的な商品だけでなく思想、技術、芸術様式も流入しました。

ガルミナ写本にみられるビザンティン様式の絵画技法、コプト語の影響を受けた文字様式、羊皮紙やインクの製造技術これらすべてはアクスム王国が当時の国際ネットワークの一員であったことを示す考古学的証拠です。ガルミナ写本は初期キリスト教世界の文化的交流とアフリカの角に花開いた高度な文明の結晶なのです。

5. 保存状態の驚異とその理由


1500年近くもの歳月を経て、これほどまでに良好な状態で残っている理由は以下の点に求められます。

1. 立地条件 アッバ・ガルミナ修道院は高地に位置し、湿度が低く、写本の大敵である虫やカビの被害を抑えるのに理想的でした。
2. 信仰の対象 写本は聖遺物同様に崇敬の対象として修道院で厳重に管理・保管されてきました。
3. エチオピアの伝統 エチオピア正教では古い写本を破棄したり再利用(パリンプセスト)したりする習慣がほとんどなく常に丁寧に伝承されてきました。

まとめ


ガルミナの福音書は、その考古学的年代測定からエチオピアのみならず世界のキリスト教史・写本史を書き換える役割を果たしました。それはエチオピアのキリスト教文化が古代末期から早期中世にかけて既に驚くほど成熟しており地中海世界と緊密に結びついていたことを示す「タイムカプセル」です。ガルミナ1に残るオリジナルの装丁は当時の工芸技術の高さを伝え二つの写本間のテキストの差異は聖書翻訳の歴史が人類の想像以上に古く複雑であることを教えてくれます。そしてガルミナ2は、その彩色画の美しさと完全な形での現存という点で人類の文化遺産の中でも特に貴重な地位を占めています。

考古学が解き明かす聖エレズバーンの真実。権力よりも信仰を選んだアクスム王の栄光と葛藤

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です