南インドの灼熱の太陽が砂漠を焼きつける頃、ひとりの青年が問い続けていた。
「この世界の真実とは何か」
彼の名は龍樹(འཕགས་པ་ཀླུ་སྒྲུབ།)バラモン家に生まれ幼い頃からヴェーダの奥義を極めた天才。
王宮に招かれ富と名声に囲まれながら彼の心は満たされなかった。
愛した女性を失い、権力の空虚さを知った時、彼は突如として全てを捨てた。
「人の苦しみの根源は、この『執着』にあるのではないか?」
裸足で荒野を彷徨う龍樹は、ある老僧と出会う。
老僧は言った。
「お前の求めるものは『空(くう)』にある」
「空? それは虚無なのか?」
「否。この世界は『縁起』によって仮に現れている。固定した実体など最初から無いのだ」
衝撃を受ける龍樹。釈迦の真意はここにあったのか。
龍宮城への旅という伝説は語る。
龍樹は「未だ世に伝わらぬ仏の真実」を求めて龍王の住む海底の宮殿へおもむいたと。
現実には、彼は廃寺の奥深くで虫食んだ経典を発見したのかもしれない『般若経』の断片を手にした時、彼は『色即是空』…この世の全ては依存し合っており、それ自体では存在しない」
彼は山岳の洞窟に籠もり7日7夜瞑想した。
岩壁に『中論』の偈「げ」を刻みつけるようにして「縁起したるもの、それを我は空と説く」
やがて龍樹の名は全インドに轟いた。
当時の仏教界は「全ては実在する」と説く部派仏教が主流。
彼らは龍樹を「破壊者」と罵った。
ある日、国王の前で論争が行われた。
相手は「一切有部」の高僧。
「お前の『空』など虚無主義だ。それでは善悪もなくなる」
龍樹は一つの杯を取り出した。
「この杯は『空』ですか?」
「当然、実在する!」
「では、壊れた後も『杯』と呼べますか?」
この世は壊れゆく縁起の仮象『空』を知る者だけが執着から自由になれると説いた
老年の龍樹は、弟子たちに囲まれながら語った
「私の説く『空』は、決して現実を否定しない。むしろ執着を捨ててこそ、この世界をありのままに見られる」
ある朝、弟子が彼の庵を訪れると龍樹はすでに坐ったまま息絶えていた。
遺体は荼毘に付されたが心臓だけは燃えず中から『般若経』の一節が書かれた紙片が出てきた。
後世、チベットでは「龍樹は今も龍宮で生きている」と信じられている。
この世は儚いからこそ
今ここに在るものと真剣に向き合い
しかし執着せず
やがて来る別れも自然として受け入れる
これは仏教的な「悟り」だけでなく、日本人の「覚悟」の美学とされる
台風後の虹を見て「無常の美」を感じる感性をいつまでも大切に。
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