ブルース界のレジェンドと言えばScrapper Blackwell(スクラッパー・ブラックウェル)
1930年代の伝説とされる彼の音色に魅了されたアーティストは数知れない。
あのBob Dylan(ボブ・ディラン)も「俺たちの音楽を辿った先は皆、スクラッパー・ブラックウェルに通じている」と発言している。
そんな伝説を残したスクラッパー・ブラックウェルの生い立ちをまとめてみます。
本名はフランシス・ヒルマン・ブラックウェル。1903年2月21日ノース・キャロライナ州シラキューズで16人兄弟の一人としてインディアンの血を受け継いで生まれました。
ギターも独学で学んだことから相当な努力家だとわかります。葉巻の箱と木っ端、弦は針金をつかいギターをつくり日々ギターの練習に明け暮れていたようです。
1920年代の中頃IndianapolisでLeroy Carr(リロイ・カー)と出会い時代を代表する名コンビとして1928~1935年にかけて100曲ほどの音楽を残しました。
しかし、この頃すでに密造酒製造で財を築いていたスクラッパー・ブラックウェルは生業を捨ててまでプロとして活動することにあまり乗るきではなかったようです。
1935年の4月29日パートナーのLeroy Carrの死去により音楽活動の意欲を失ったスクラッパー・ブラックウェルは1959年まで音楽業界から完全に消息してしまった。
この時の記録はなくかろうじて残されているのはアスファルト工場に職を求めたとの噂だけ…
それから数十年の月日がたち55歳になったスクラッパー・ブラックウェルは沢山の奇跡が重なりブルース・ファンの Duncan Scheidtによって再び音楽の道に足を踏み入れることになりました。
この頃スクラッパー・ブラックウェルはもう15年以上もギターには触れていなく演奏すらしていなかったようです。
Duncan Scheidtは彼が演奏を再開できるように全力で支えとなり、これによって再び世に出るかと思われた矢先1962年、彼は Indianapolisの裏通りで銃に撃たれ落命してしまった。
それは、Prestige / Bluesvilleのために LPの吹き込みを終えて帰るところだったとも伝えられています。
この事件の真相はいまだに謎で、未解決のまま歴史の闇に溶け込んでいってしまった。
いつの時代も伝説を作る人間はなぜ短命なのか…
[wpap service=”with” type=”detail” id=”B00005N817″ title=”Mr Scrapper’s Blues”]ちょいと皆さん聞いとくれ
俺も昔はエエ身分
ツレを引き連れ 北新地
繰り出しゼイタクし放題
やがて暮しは ガタガタ
寝るとこさえもない俺に
ツレは皆知らん顔
チキショウ あの銭ありゃあなあ
俺の言うことわかるだろ
明日のことはわからねェ
人間なんてこんなもの
銭の切れ目が縁の切れ目
銭のあるときはアンタにも
皆が友達ヅラして寄ってくる
この世は本当に銭次第
冷たいもんだ 嫌なもんだ
誰も構っちゃくれやしねェ
そうだろ ドツボにはまったら
きっときっとわかるぜ
いつまでもあると思うな親と金
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