フランスの美術考古学博物館に飾られた11人のアイヌ指導者達

  『夷酋列像』は、松前藩主家老_蠣崎 波響により、寛政元(1790年)に藩主 松前道廣の命で描かれました。

波響が、寛政元(1789年)にクナシリ.メナシのアイヌの戦いのとき松前藩に協力したアイヌの指導者ら12名の肖像画を描いたのが『夷酋列像』である。

この作品はフランス.ブザンソン美術考古学博物館所蔵の11幅である。

マウタラケ(麻烏太蠟潔)

Mautarake

ウラヤスベツ惣乙名

チョウサマ(超殺麻)

Chousama

ウラヤスベツ乙名

ツキノエ(貲吉諾)

Tsukinoe

クナシリ惣乙名

ションコ(贖穀)

Shonko

ノッカマフ乙名

イコトイ(乙箇吐壹)

Ikotoi

アッケシ(厚岸)乙名

 

シモチ(失莫窒)

Shimochi

アッケシ脇乙名

イニンカリ(乙唫葛律)

Ininkari

アッケシ、バラサン乙名

ノチクサ(訥窒狐殺)

Nochikusa

シャモコタン乙名

ポロヤ(卜羅鵶)

Poroya

ベッカイ(別海)乙名

ニシコマケ(泥湿穀末決)

Nishikomake

アッケシ乙名

チキリアシカイ(窒吉律亞湿葛乙)

Chikiriashikai

ツキノエの妻、イコトイの母

※写真は全て私物をスマートフォンで撮影しているため画質にむらがあります

『夷酋列像』は、江戸時代後期に活躍した蠣崎波響によって描かれた連作肖像画です

彼は松前藩の家老でありながら、優れた画家としても知られていました

この作品群は、北海道東部や国後島のアイヌの指導者たちをモチーフにしており、彼らの風格や文化を描写しています

1789年の5月、松前藩領国後場所と根室場所メナシで、アイヌの一部が和人商人との間で紛争が発生しました

この紛争は、アイヌが和人の商取引や労働条件に不満を持ち、蜂起したことによるものでクナシリ・メナシの戦いとして知られている

この戦いで、地元の和人70人余りが犠牲となった

松前藩は事態を重く見て、260名の討伐隊を派遣しました

この討伐隊の指揮官には、藩の家老であり画家でもあった蠣崎波響が任命された

討伐隊は蜂起したアイヌを鎮圧し、その後、蠣崎波響は功績のあった43人のアイヌを松前城に連れて行きました

翌1790年、アイヌに対する感謝の意を表すために、藩主・松前道広の命令で二度目の謁見(ウイマム)が行われた

この際、波響は特に功績のあった12人のアイヌの肖像画を描きました

彼らの姿を忠実に再現したこの連作肖像画が後に「夷酋列像」と名付けられ、1790年11月に完成したとされる

波響はこの作品を持って上京し、藩の威信を回復するために京都にて光格天皇にも披露しました

この絵画は当時のアイヌ社会の指導者たちの風格を伝える重要な歴史的資料とされている。

1854年、函館市の実行寺がペリー艦隊の写真班の宿舎となり、様々の風俗を銀板写真機で撮影。「松前藩主の写真」は日本最古のもので、日本写真発祥の由縁とされる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です