『偉人のダークサイド』野口英世とロックフェラー資本が築いた闇

野口英世という名前は日本では千円札の肖像として、また世界的な細菌学者としてほぼ神格化されている。

しかし、この表象の裏には西洋医学そのものが抱える矛盾と光と影が凝縮されている。

野口英世という人物を通して医学の進歩という名の下に覆い隠されてきた真実と直面しなければならない。

貧しさから這い上がった原点

1876年、福島県の貧しい農家に生まれた野口英世(本名・清作)は1歳半の時に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い五指が癒着して棒のようになってしまった「てんぼう(手ん棒)」「びんぼう」といじめられ農業ができない身体となった彼は、母・シカの「学問で身を立てよ」という教えに従い勉学に没頭する。

15歳の時、教師や同級生らの寄付金で左手の手術を受ける。

この手術を担当したのは会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎だった。

医学の力で自身の身体機能がある程度回復したことを体験した清作は医師を目指すことを決意する。

医学の道を志した本来の動機は人類救済という崇高な理想ではなく自身の障害への対処と生き残るための手段であったという皮実な現実がここにある。

血脇守之助という「犠牲者」

野口英世の成功物語で常に省略されるのは彼の「ダメ人間」ぶりを支え続けた無名の支援者たちである。中でも歯科医・血脇守之助の存在は野口の利己的な性格を浮き彫りにするものだ。

1896年野口は上京するがすぐに無一文となり血脇の元に転がり込んだ。

血脇は収入の少ない身でありながら野口の住まいや学費を支援した。

しかし野口の要求はエスカレートしドイツ語学習の費用、私立医学塾の学費と血脇は自腹を切らざるを得なかった。

周囲から「あんな男に学費を出すなんてバカげている」と言われるほどだった。

さらに悪質なのはアメリカ留学を目指した野口の行動である。

留学費用を得るため野口は金持ちの娘と結婚することを約束して多額の金を手に入れると自分で自分の送別会を開き留学費用をほとんど使い果たしてしまった。

それでも血脇は借金までして野口の留学資金を工面したのである。

血脇は息子に「女に費やす金などたいしたものではないが男に吸い取られると底がない」という遺言を残している。

これは野口という人生を翻弄された者の苦い教訓であった。

ロックフェラー研究所と西洋医学の闇

1900年に渡米した野口はロックフェラー医学研究所の一員となる。

この研究所は石油王ジョン・D・ロックフェラーによって設立された機関であった。

ここで西洋医学と資本主義の危険な融合を見ることになる。

ロックフェラーは石油精製の残りカスを利用して医薬品を大量生産し爆発的な利益を上げた。

医学の進歩とは実は巨大資本の利益追求と不可分の関係にあったのである。

野口はこの研究所で梅毒スピロヘータの純粋培養に「成功」し一躍世界的名声を手に入れる。

しかし、この業績を含む彼の研究の多くは後に否定されることになる。

華やかな業績の発表の裏で、その正当性を疑う声は当初からあったのである。

黄熱病研究の光と影

1918年、野口はエクアドルで黄熱病の病原体を「発見」したと発表し世界的英雄となる。

この結果を基に開発された「野口ワクチン」により南米の黄熱病は収束したとされた。

この成功物語には早くから疑問符が付いていた。

1924年、アフリカ・セネガルで黄熱病が発生するが野口ワクチンは効果を示さなかった。

現地からは「イクテロイデスが発見されない」との報告が寄せられている。

これは野口の病原体特定が誤りであったことを示す初期の兆候であった。

野口が黄熱病の原因とレプトスピラを特定したが実際には黄熱病の真の原因はウイルスであった。

野口が研究に用いた患者の検体は実際には黄熱病ではなく症状が似たワイル病(レプトスピラ症の一種)の患者のものであったことが死後に確認されている。

それでも野口は自説を曲げず1927年、自らアフリカに赴き研究を続ける中で黄熱病に感染し51歳でその生涯を閉じた。

野口英世の死と西洋医学のパラドックス

野口の死は、ある皮実なパラドックスを提示している。

彼は自身の誤った研究対象によって命を落としたのである。

これは西洋医学の「進歩」が往々にして誤りの上に積み上げられていることを示唆している。

野口の死後、黄熱病の真の原因はウイルスであることが判明し黄熱ワクチンは野口の死後、1937年にマックス・タイラーによって開発された。

タイラーはこの功績で1951年にノーベル医学生理学賞を受賞している。

野口英世の悲劇は細菌学の過渡期に登場したが故の悲劇でもあった。

彼が研究者として活動した時代、微生物学・細菌学はパスツールやコッホによって方法が確立されたばかりだった。主要な病原菌は先駆者たちによって発見され尽くされており野口が取り組んだ課題は難易度の高いものばかりだった。

彼は「実験マシーン」「日本人は睡眠をとらない」と揶揄されるほど人に倍する努力を続け小児麻痺や狂犬病、トラコーマや黄熱病の病原体の発見に邁進した。

皮肉なことに野口の死後すぐにウイルス病研究の方法が編み出され光学顕微鏡に代わって電子顕微鏡が登場したことで研究のスタイルは一変した。

今日では野口が残した大量の研究論文を読む者はほとんどいない。

かつて英雄と讃えられた者の業績が、このように早くに陳腐化するのは何故か。

人類はこの問いを真摯に受け止める必要がある。

西洋医学が抱える根本的な矛盾

野口英世の生涯は西洋医学の光と影を如実に物語るものであった。

一方で梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織において確認し、これらの病氣が梅毒の進行した形であることを証明した業績は生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示した点で医学史に残る貢献であった。

梅毒スピロヘータを麻痺性痴呆患者の脳と脊髄癆患者の脊髄に発見したことは当時「キツネ憑き」や「悪魔憑き」などとされていた精神病の一因を医学的に解明した業績であった。

しかし他方で、その研究手法と動機には常に疑惑が付きまとった。

黄熱病研究における誤った病原体の特定は彼のキャリアを永遠に汚すことになった。

ロックフェラー研究所における野口の研究は資本主義と医学の危険な共存を示す事例でもあった。

石油精製の副産物ナフサから医薬品を生み出そうとしたロックフェラーの試みは、医学が人類救済の純粋な学問から利益追求の手段へと変質する転換点であった。

真実の暴露

野口英世の物語は西洋医学の進歩という神話を相対化する。

医学の「進歩」が単線的なものではなく数多くの誤りと犠牲の上に成り立っていることを理解しなければならない。

野口の生涯は栄光と転落、献身と利己主義、真実と情報が複雑に絡み合ったものであった。

彼の人格の欠陥は、そのまま西洋医学が内包する矛盾を反映している。

現代に求められるのは野口英世という英雄神話の解体を通じて医学と資本主義の危険な結合に目を向け科学の名の下に行われる誤ちを批判的に検証する姿勢なのである。

人類はこの苦い真実と向き合うことでのみ真の医学の進歩への道が開けるだろう。

野口英世の物語は、そのための警鐘なのである。

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