人間は生まれながらに拳を握り牙を剥く生き物だ。
怒りに震え、恐怖に怯え、傷つけ合うことを本能として刻み込まれている。
しかし、その拳を開き牙を収める術を私たちは知っている。
武道とは、戦いの技術だけでなく人が獣ではなく人間として生きるための「道」なのだ。
己を修めるとは、己と戦うことである。
鏡に映る自分の中に弱さと向き合い、逃げたい心を踏み潰す。
拳は硬く、しかし心は柔らかく。
怒りを力に変え、驕りを砕き、己の限界という名の敵と毎日対峙する。
それは内なる暴力性を制御する修業であり、己の魂を鍛えるための孤独な闘いだ。
だが、この戦いの果てに待っているのは破壊ではなく「護る力」である。
真に強き者は己の力を誇示せず他を圧倒しない。
むしろ、その拳は弱き者を覆いその身は理不尽な暴力の前に盾となる。
武道の極意は「不戦」にあり最も優れた技は「争わずして勝つ」ことだ。
なぜなら本当に守るべきものは己の ego(自我)ではなく隣にいる人間の尊厳だからだ。
人類は何千年も戦い続けてきた。
剣が銃に変わり、銃が核に変わっても私たちは同じ過ちを繰り返している。
しかし「武」という字が「戈(ほこ)を止める」と書くように本当の強さとは争いを終わらせる力なのだ。
己を修めた者だけが他者の痛みを理解し暴力の連鎖を断ち切ることができる。
磨くべきは突きや蹴りの技術だけではなく己の弱さと正直に向き合い、それでも尚、他者を護ると決めた心。
それが人類が忘れてはならない「生きる作法」なのだ。
拳を握れば、それは武器になる。
その拳を開けば、それは誰かを救う手になる。
武道とは、その「選択」を教えてくれる人類への贈り物なのである。
コメントを残す