チャールズ・ポンジの人生は、野心と欺瞞が交錯する波乱に満ちた物語だ。
1882年、イタリアのルッカで生まれた彼は貧しい家庭に育ちながらもアメリカに渡り、一攫千金を夢見る。
しかしその夢は、やがて20世紀最大級の金融詐欺へと変貌していく。
1903年にボストンに到着したポンジは、最初から順風満帆な人生を送るわけではなかった。
カナダで銀行員として働いていた時期には小切手詐欺に関与し、投獄されるという挫折を味わう。
この経験が、彼のその後の人生に暗い影を落とすことになる。
釈放後も偽造パスポートや密入国の手助けなど、法の網をくぐる生活が続いた。
転機が訪れたのは1919年、ボストンでのことだ。
国際返信切手券(IRC)という郵便制度のわずかな価格差に目をつけたポンジは、これを利用して巨額の利益が得られると主張し始める。
「90日で50%の利益」という甘い言葉に人々は魅了され、雪だるま式に投資家が増えていった。
当時のボストンでは、ポンジの名前が熱狂的に語られ、彼は一躍時の人となった。
豪邸に住み、高級車を乗り回すポンジの派手な生活は夢を掴んだかのように見えた。
しかしその実態は、新たな投資家から集めた資金で古参の投資家に配当を支払うという、見せかけの仕組みに過ぎなかった。
現代でいうところの「自転車操業」である。
この手口は後に「ポンジスキーム」として知られるようになるが、当時はまだ誰もその危険性に気づいていなかった。
1920年夏、ボストン・ポスト紙の調査報道がきっかけで疑惑が浮上する。
記者たちが指摘したのは、ポンジが主張するほどの規模の切手券が実際には流通していないという事実だった。
この報道を皮切りに当局の捜査が始まり雪崩を打つように事態は急転する。
投資家たちが一斉に資金の返還を求める中、ポンジの築いた空中楼閣はあっけなく崩壊した。
裁判で詐欺罪が確定したポンジは、3年半の刑期を言い渡される。
刑務所から出た後も彼は同じような詐欺を繰り返そうとするが、もはや人々は騙されなかった。
最終的にはイタリアに強制送還されムッソリーニ政権下で職を得ようとするも失敗。
晩年はブラジルの貧民街で孤独な最期を迎えた。1949年、67歳だった。
ポンジが残したものは金融史上に残る悪名高い詐欺の手口だけではなく彼の名を冠した「ポンジスキーム」という言葉は、その後100年以上にわたって世界中で使われ続けている。
2008年に発覚したバーナード・マドフの650億ドル詐欺事件など、現代でも形を変えて現れるこの手口は人間の欲望と軽信がいかに大きな被害を生むかを如実に物語っている。
ポンジ自身は裁判で「私は人々に夢を与えただけだ」と主張したという。
確かに、当時の投資家たちの中には疑いながらもあまりの高利回りに目がくらみ自ら進んで騙されに行った者も少なくなかったかもしれない。
しかし、その「夢」の代償はあまりに大きかった。
ポンジの物語は金融リテラシーの重要性を説くとともに、人間の心理を巧みについた詐欺の手口が時代を超えて繰り返されることを警告する生きた教訓なのである。
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