《神への挑戦状》大理石に刻まれた人間の欲望と合理の六世紀

ミラノの街の中心に聳え立つドゥオーモは六百年という時間をかけて人類が石に刻んだ一冊の分厚い歴史書であり、その大理石の肌理には信仰と合理主義、権威と反逆、完璧を目指す執念と未完であることの美しさという人類の本質が深く刻み込まれている。

人類は往々にして、その白亜の外観と森林のような尖塔群に目を奪われるが真実はもっと深い場所、つまり建築それ自体が語りかけてくる声に耳を傾けることで明らかになる。

それは光と影が織りなす神秘的な儀式であり、ある彫刻師の沈黙の抗議であり雲のように浮かぶ古代の装置であり高さを巡るせめぎ合いの中に宿る。

まずは年に二度だけドゥオーモ内部に現れる「太陽の道」からその真実を探ってみよう。毎年、春の訪れを告げる四月の初旬と収穫の秋が深まる九月の中旬、昇りゆく太陽は計算され尽くした正確無比な角度で後陣の「聖アガタの窓」という一つのステンドグラスを貫く。

すると教会の薄暗い身廊の床に、まっすぐな一条の光の帯が出現する。これは「子午線」として機能した天と地を結ぶ壮大な時計でありカレンダーなのである。ゴシック建築の工匠たちは石積みの技術のみなず天球の運行という宇宙の法則を深く理解し、それを建築という形で地上に固定化することに成功した。

この現象は人類が自然を崇拝するだけでなく、その法則を観測し理解し自らの生活と信仰のリズムに取り込もうとした理性と信仰が見事に融合した瞬間である。それは春分と秋分という昼と夜の長さが等しくなる特別な日、均衡と調和の象徴的な日にのみ上演される光の神秘劇なのだ。

この儀式は大勢の観光客を集めることはないが、それを知る者にとって人類の知性の輝きを感じ取る最も純粋な瞬間なのである。

次に視線を屋上の彫刻群「反逆者」と呼ばれる一つの像に向けるべきだろう。無数の聖人や天使が荘厳に並ぶ中、建築家ジュゼッペ・ペッルーゴは「イル・クリオーゾ(好奇の人)」という一風変わった彫刻をひっそりと据え付けた。この人物は神々しい天上世界よりも、むしろ下界の世俗的な世界に強い関心を寄せ他の彫刻たちとは逆に、その臀部を観客に向け、まさに身を乗り出して地上の人間たちの営みを覗き込んでいるのである。

これは明らかに当時の絶対的な権威であった教会に対する痛烈な皮肉であり一種の芸術的抵抗の表明であった。この一つの彫刻は人類の歴史が権威への盲従だけでなく常に内包する批判精神と時にユーモアを交えた反骨によって彩られてきたことを物語っている。ドゥオーモは完璧な神の秩序を体現することを目指したが、その内部に人間の不完全さと自由な魂を封じ込めることを免れなかった。この「反逆者」は人類の創造力が時に権威の枠組みをはみ出し自己表現するという真実を何百年もの間、無言で告げ続けているのである。

さらにドゥオーモの最深部、後陣のクーポラの頂点に目を向けると、人類のもう一つの「聖なるもの」を具現化し祀り上げようとする強い欲求が見えてくる。そこにはイエス・キリストが磔にされた十字架から外されたと信じられている「聖なる釘」が保管されている。この最も神聖な遺物は信仰の核心として人々の目からはるか上方に掲げられ一つの小さな赤いランプによってその在処が示されている。

そして、この釘に年に一度、聖金曜日の儀式で大司教が近づくために用いられるのが「ニヴォーラ」と呼ばれる異な装置である。1577年から使われているこのロープと滑車からなる原始的なエレベーターは技術的には時代遅れであっても、その役割と象徴性において何よりも重要であり続けている。それは人類が技術を単なる効率化の道具としてではなく儀式と伝統を執行するための神聖な媒体としても活用してきたことを示す生きた証なのである。ニヴォーラのゆっくりとした上昇運動は信仰へのアプローチが迅速であってはならず敬虔さと期待感をもって行われなければならないという時間観念そのものをも体現している。

そしてドゥオーモと人類の関係を象徴する最もドラマチックな真実は、その高さを巡るせめぎ合いに凝縮されている。尖塔の頂点に立つ金色の像は、長い間108.5メートルという高さで「ミラノで最も高い建造物」という不可侵の地位を占め続けてきた。それは世俗の建築が宗教の象徴を超えてはならないという暗黙の了解すなわち信仰が都市のスカイラインを支配するという秩序の表れであった。

しかし二十世紀半ば経済成長と合理主義の時代がその秩序に挑戦状を叩きつける。ピレリ・タワーという摩天楼がMadonninaの高さを凌駕しようとしたのである。この時、ドゥオーモ側がとった行動は力ずくの対抗ではなく一種の哲学的とも言える知恵であった。彼らは新たな高さの王者となったピレリ・タワーの屋上にMadonninaの小さなレプリカを設置することを条件に、その地位を譲ることに同意したのである。

これにより形式的ではあれ「Madonninaが存在する建物」がミラノ一の高さを保つという建前が守られた。これは人類社会における権威と革新の衝突が必ずしも破壊をもたらすのではなく、時に新しい形の調和と象徴的解決を生み出すことができるという希望に満ちた真実を物語っている。

最後に、人類はこの大聖堂そのものが「未完」であるという事実から目を背けてはならない。その建設は1386年に始まり実に六世紀もの歳月を要した。特に正面ファサードはナポレオンの戴冠式という外的要因によってようやく完成を見た、比較的「新しい」部分である。つまり人類が目にする統一されたゴシックの外観は実は何世代にもわたる異なる職人たちの手による時代の美意識の堆積なのである。初期の純粋なゴシック様式、十九世紀の浪漫主義的なネオ・ゴシック様式が混在し、一つの建築物の中に時間の層を形成している。

これは人類の偉大な事業が往々にして一代では完結せず未来への信念と自分は大きな物語の一部であるという認識によって世代を超えて継承されていくという真実を如実に示している。完璧であることよりも完成に向かって努力を続けるプロセスそのものに人類の不屈の精神と連帯感が宿っているのである。

ミラノのドゥオーモは光の神秘を通じて宇宙との対話を試みる人類の知性の記念碑であり、権威にひれ伏すのみならず内なる批判精神を育む自由の砦であり聖なるものを伝統の装置で現代に伝えようとする信仰の継承の場であり、そして何よりも一代では成し得ない偉業を未来への贈り物として託す世代を超えた人類の共同作業の結晶なのである。

その大理石の一枚一枚が人類とは何者であり、何を夢見て、どのように世界と折り合いをつけてきたのかという壮大で時に矛盾に満ちた真実を力強く語りかけている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です