ローマの魂はテヴェレ川の濁流と共に始まる。
それは一つの籠が葦の茂みに引っかかる偶然から紡ぎ出された運命の物語だ。
その籠の中には未来を運ぶ双子の嬰児が眠っていた。
彼らは戦神マルスの血を引き王位を奪った叔父アムリウスによって死の川へと流された。
しかし神々は、この幼い命を見捨てなかった。
川の流れは優しく籠を岸辺へと運び、やがて一匹の雌狼がその啼き声に導かれるように現れる。
彼女は飢えた獣ではなく母性の化身であった。
金色の瞳に映るのは滅びゆくべき存在ではなく自らが守るべき未来そのもの。
鋭い牙は武器ではなく弱き者を守る盾となった。
荒々しい呼吸と共に与えられる温かな乳は、神々の意志そのもののように二人の子を死の淵から蘇らせた。
やがて彼女の元を訪れた羊飼いファウストゥルスとその妻ラウレンティアは狼に守られる双子という驚くべき光景を目撃する。
神聖なる予感に打たれた二人はロームルスとレムスと名付けたその子らを我が子として育て上げた。
時は流れ成長した双子は自らの出生の秘密を知る。
運命は彼らをアルバ・ロンガへと導きアムリウスを倒して真の王ヌミトルを王座に戻す。
しかし英雄の物語は、ここで終わらない。
むしろ、ここからが始まりであった。
新たな都市建設の野望に燃える二人は丘を選び境界を定めようとする。
しかし誰の名によって都市が築かれるかという問いは兄弟の間に深い亀裂を生んだ。
神々の示す兆しを巡る争いは、ついに悲劇的な結末を迎える。
城壁を飛び越えたレムスをロームルスは自らの手で討つ。
初代王の最初の行為は弟の血によって彩られたのである。
この兄弟殺しの瞬間にローマの本質が宿る。
それは神々に愛されながらも人間の業と矛盾を内包する運命の重さ。
ロームルスの涙と後悔、そしてそれでも前に進まねばならない王の孤独。
ここにローマの強さと悲劇の原型がある。
七つの丘に築かれたこの都市は狼の乳と兄弟の血という矛盾する二つの養分によって育まれる運命にあった。
そしてこの神話は石と金属となりローマのアイデンティティとして永遠化される。
紀元前5世紀に鋳造されたという「カピトリーノの狼」像はエトルリアの工人の槌音を今に伝える。
筋肉の緊迫した張り、獲物を狙うような鋭い眼差し。
しかしその腹の下には無邪氣に乳を飲む双子の像(後世の付加でありながらも)が寄り添う。
この像はローマが誇る力と優しさ野生と文明の奇妙な融合をそのまま表現している。
ローマ人はこのイメージを貨幣に刻んだ。
紀元前137年、セクストゥス・ポンペイウスが発行したデナリウス銀貨は裏面に雌狼と双子、無花果の樹、そして見守る羊飼いを繊細に彫り込んだ。
人々は毎日手に取る硬貨の裏で、祖国の誕生の瞬間に触れた。
皇帝たちもまた、為政者の正統性を訴えるため狼と双子のモチーフを多用した。
アウグストゥスは自らを新たなロームルスに見立てコンスタンティヌス帝でさえ、この強力なシンボルを政治利用した。
時は流れ、ローマ帝国は滅びても物語は生き続ける。
ルネサンスの芸術家たちは古代の遺産に新たな命を吹き込みカピトリーノの狼像に双子を添え加えた。
イタリア統一氣運が高まる19世紀、この像は結束のシンボルとして人々の心を奮い立たせた。
そして現代ローマの街角を歩けば、そこかしこに狼と双子の紋章が輝く。
ローマは今もテヴェレ川の流れと共にこの物語を語り継ぐ。
それは建国神話を超え人間の本質、愛と憎しみ、創造と破壊、兄弟の絆と裏切りを映し出す永遠の鏡なのである。
狼は今日もカピトリーノの丘から永遠の都を見下ろし、そして川は数千年前と変わらぬ流れでローマの誕生を囁き続けている。
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