ギリシャの深き山懐に抱かれた聖域「アガトン」は、今も尊者ヴィサリオンの神聖なる存在感に満ちています。
彼の生涯は、神と人々との間に架けられた生きた橋であり、その足跡はテッサリアから中央ギリシャにかけての広大な地に、深い信仰の痕跡を刻み続けています。
この地の空氣には、千年の時を超えて聖者の祈りが溶け込み岩肌には神と格闘した者の汗が染み込んでいる。
アガトンの修道院は石積みの生ける信仰の器官であり今も脈打つ霊性の心臓だ。
尊者ヴィサリオンの足跡は、この地の土となり、水となり、人々の呼吸となって生き続けている。
彼がかつて立ち祈った修道院の庭には、今も毎春、なぜか他の土地では見られない真白い花が咲き乱れる。
地元の古老はこう囁く「あれは尊者様の祈りが形になったものだ」と。
巡礼者たちが触れる聖遺物は冷たい大理石の櫃に納められているが手をかざせば、ほのかな温もりを感じるという。
物理的な説明などつかないこの現象こそ聖者の存在が”過去”などではなく今この瞬間も生き続けている何よりの証なのだ。
テッサリアの農夫は種を蒔く時に無意識に尊者の名を唱え、中央ギリシャの母親たちは子供の額に十字を切る時、彼の祝福を請う。
ここでは聖者が歴史書の中の人物ではなく隣に座ってパンを裂くような身近な存在だ。
ある羊飼いは、嵐に遭った夜、忽然と現れた灰色の外套の老人に道を教えられ後でそれが尊者ヴィサリオンの姿だったと確信した。
その話を聞いた司祭はこう言った「驚くことではない。聖者は私たちが氣づかぬうちに、いつもそばにいるのだから」と。
現代という信仰が薄れゆく時代にあってアガトンの地は特別な輝きを放っている。
スマホに依存した私たちの魂が忘れかけた「見えないものへの確信」を、この場所は力強く呼び覚ましてくれる。
尊者ヴィサリオンが遺した真の奇跡とは超自然的な現象などではなく、この地を訪れる者が例外なく経験する「内なる変容」なのだ。
誰もがここを去る時には何かが変わっている。
それは説明できないが確かに感じられる変化だ。
夕暮れ時、修道院の鐘が鳴り響く。
その音は単なる金属の振動ではなく尊者が内なる耳に語りかける声のように思える。
千年の時を経ても色あせないこの信仰の記憶は、物質主義に溺れそうになる現代人への神からの優しい警告なのかもしれない。
アガトンの地は訴えている 真の命は時空を超えて続くものであること そして聖者の共同体は過去の聖人たちと今を生きる私たちを含めた「一つの生ける身体」であることを。
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