エルサレムの丘に刻まれた神々の約束は、千年を超えてもなお人々の血を沸騰させる。
石造りの壁に反射する夕日は、ユダヤ教徒には「約束の地」の輝きとしてイスラム教徒には「侵されてはならない聖域」の炎として映る。
ここに第三神殿の幻が浮かび上がるたび歴史は再び軋み始める。
イスラエルの地下では、神殿再建を夢見る者たちが古代の青写真を広げる。
彼らにとってそれは失われた契約の箱を安置する場所ではなく民族の屈辱に終止符を打つ「最終章」だった。
一方、テヘランのモスクではシーア派の導師が信徒に語りかける。
「あの神殿の礎石が据えられる日こそ偽りの救世主が世界を欺く時だ」と。
ユダヤ教の祭司が神殿の祭壇で捧げ物をしていた時代、ペルシャの地ではゾロアスターの炎が燃えていた。
キリストが十字架にかけられたとされた頃、パルティアの騎兵隊はローマ軍と砂漠で刃を交えた。
歴史は螺旋階段のように同じ光景を違う衣装で繰り返してきた。
現代の地政学は、この聖なる狂氣を増幅させる。
アメリカの福音派は「神殿再建がキリストの再臨を早める」と信じ、イラン革命防衛隊は「シオニストの野望を粉砕せよ」と叫ぶ。
ロシアは正教会の預言を盾にトルコはオスマン帝国の亡霊を抱きながら、それぞれの駒を動かす。
第三神殿はまだ存在しない。
だが人々の心に築かれた「見えない神殿」は、すでに無数の生贄を求めている。
パレスチナの少年が投げた石、イスラエル兵士の銃口、イランの遠心分離機が唸る音。
それらはすべて神の名のもとに捧げられる現代の犠牲だ。
学者たちは「宗教が政治の道具にされた」と冷徹に分析する。
だが嘆き疲れた母親の目にはユダヤ教の星もイスラムの三日月も同じ深紅色に染まって見える。
戦場で拾われた聖書とコーランは風でめくられたページで奇妙に重なり「殺すな」と記された章節を同時に露呈する。
人類はなぜこの争いを止められないのか?
答えはおそらく神殿の丘の地下に眠るものよりも権力者の胸に巣くう「神になりたいという欲望」にある。
預言者の言葉を歪めてでも自分たちこそが「選ばれた民」だと証明したい。
その執念が石と鉄の衝突を超え時間さえも歪めるほどの重力を生む。
今この瞬間も誰かが神殿の設計図を描き誰かがそれを燃やそうとしている。
歴史は裁断された羊皮紙のようにつなぎ合わされ、新たな憎しみの物語が書き加えられる。
第三神殿が建設されるかどうかより危険なのは、すでに人々が「心の神殿」で戦争を始めているという事実だ。
特定の立場を押しつけず読者自身が「なぜ」を考えるきっかけとなれば幸いです。
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