「ゆきゆきて神軍」は、そのへんの戦争ドキュメンタリーではない。
奥崎謙三という男の執念を通して、人間の暗部を抉り出す残酷な鏡だ。
ニューギニアの密林で飢え狂った日本兵が現地民を殺し、自分達の仲間の肉を喰らう。
その事実を、戦後を経てなお鬼氣迫る勢いで追い続けた男がいた。
彼は正義の使者か、それとも新たな暴力を振りかざす者か。
カメラは彼が元将校の自宅に押し入り「お前は人肉を喰わせたのか」と詰め寄る瞬間を容赦なく捉える。
その目には戦争のトラウマが蠢いていた。
しかし、この映画が本当に恐ろしいのは過去の犯罪を暴くことだけではない。
「人はどんな状況下で獣になるのか」という答えのない問いを観る者の胸に突きつけて離さないからだ。
飢えと恐怖の中で軍の命令に従い倫理を捨てて生き延びた兵士たち。
彼らを「鬼」と断罪できるだろうか?
あるいは、その罪を問う奥崎自身ピストルを手に「正義」を演じることで、戦争と同じ暴力を再生産していないか?
ロシアとウクライナで、イスラエルとガザで犯している非道とニューギニアの密林で起きた惨劇は地続きだ。
戦場とは、国家が人間を「道具」に変える装置。
私たちは映像でしか戦争を知らない世代になった。
スクリーン越しに奥崎氏が叫ぶ「お前たちは真実を見たくないんだ」という声は数十年の時を超え今の日本人にも鋭く刺さる。
歴史は繰り返すというが、本当に繰り返させないためには慰霊碑の前で頭を下げるだけではおさまらない
「あの戦争」で日本兵がしたことを肌感覚で想像できるか
想像したくないという欲望と戦えるか
この映画は私たちにそう問いかけている。
奥崎氏のあまりの過激さに目を背けたくなる瞬間こそ、実は最も見つめなければならない闇なのかもしれない。
ゆきゆきて神軍の映像は、未来への警告として今も血を流し続けている。
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