明治の銀行創業者たちは全員『江戸時代の金融プロ』だった話

日本最初の「銀行」と「銀」の由来

「第一国立銀行」と両替商の継承

第一国立銀行(みずほ銀行の源流)は、渋沢栄一が中心となり設立しましたが、その資本や人材、為替ノウハウはまさに三井組や小野組、島田組といった江戸時代の大両替商から引き継がれたものです。特に三井組は幕府の公金為替も扱っており、その信用ネットワークが銀行の基盤となりました。「銀行」の「銀」は大坂を中心とした信用取引・決済システムそのものを象徴しています。大坂の両替商は銀地金や丁銀を量り売りするだけでなく手形決済や信用取引を発達させていました。つまり「銀を量る」行為が、やがて「信用を量る」銀行業へと発展したのです。
銀行の地図記号(分銅マーク)は「銀の重り」ではなく両替商が「信用」を図る象徴でもありました。彼らは銀の重量だけでなく手形の信用度や相場の変動まで「量って」いたのです。

日本の「国立銀行」は民間銀行です。これはアメリカの「National Bank」(国法銀行)を「国立」と誤訳した名残で実際には政府から発券権を与えられた民間銀行でした。この誤訳が定着したのも当時は「銀行」という概念自体が新しかったからです。
銀から金へ 明治時代後半には日本は金本位制に移行します。つまり「銀行」という名前に「銀」が残った頃には実際の通貨制度は「金」を基準に動き始めていたのです。歴史の皮肉とも言えます「銀行という制度は西洋から輸入されたが、その実体は江戸時代の両替商、特に大坂の銀を基軸とした金融ネットワークの上に築かれた」

この一点を理解すれば「なぜ銀行に『銀』が入るのか」という問いへの答えは、日本経済史の連続性を示す深い事実として見えてきます。


江戸時代の両替商 近代銀行の土台

「三貨制」という複雑性こそが両替商のビジネスモデルを生んだ。金遣いの江戸、銀遣いの大坂、さらに銭貨を使う日常取引この複雑さが為替相場の変動リスクを管理する専門家としての両替商を必要としました。彼らは「交換屋」ではなくリスクを計算し手数料を取る金融業者だったのです。銀貨が秤量貨幣(重さで価値を決める)だったことが、実は金融技術を発展させました。「重さを量る」→「価値を量る」→「信用を量る」 という連鎖が生まれ手形や預金証書といった紙ベースの信用取引が発達したのです。天秤はその象徴でした。
三井組 越後屋(現・三越)で培った現金掛け値なし(当時は画期的な定価販売)のビジネスモデルと両替業での慎重なリスク管理が融合。これが明治以後の三井銀行→三井財閥へと発展する基盤になりました。小野組の積極融資で勢力を伸ばすも明治初期の金融危機で破綻。その失敗が後の銀行経営にリスク管理の重要性を教える教訓となったのです。

両替商の「技術」が銀行に継承された例

帳合(ちょうあい)大坂の両替商同士が毎日手形の差引計算をして決済するシステム。これは現代の銀行間決済システム(全銀システム)の原型と言えます。両替商に預けた銀貨の預かり証が、やがて紙幣や預金通帳の起源の一つとなりました。江戸と大坂間の送金を現金を移動させずに決済する「大坂為替」は現代の銀行振込や電子決済の思想的先駆けです「両替商が過去の職業ではなく近代銀行のすべての機能を先取りしていた高度な金融機関だった」 ということが鮮明に伝わってきます。

「江戸時代の両替商は近代銀行の土台である」この一文に、すべてが凝縮されています。

江戸時代の両替商の天秤と分銅

明治時代 日本初の近代銀行「第一国立銀行」の誕生

第一国立銀行設立の「歴史的必然性」と「偶然」

「銀行」の必要に迫られた明治政府は廃藩置県により旧藩の膨大な負債と、新国家の統一通貨・財政基盤の整備という二つの難問に直面していました。国立銀行条例は、その解決策として「政府紙幣(不換紙幣)の信用を、民間銀行の発行する兌換券(国立銀行紙幣)に置き換えていく」という壮大な実験だったのです。第一国立銀行は、その第一号の実験場でした。渋沢栄一という「触媒」の役割は西洋の制度を輸入しただけではありません。彼が推進した「合本主義」は江戸時代の同族経営(三井組など)を西洋の株式会社制度に適合させるための知恵でした。第一国立銀行が三井と小野の合弁で始まったの既存の金融資本を新制度に組み込むため意図的に設計した結果と言えます。小野組の破綻と三井組の独立に示された二つの道。江戸時代的な積極融資(投機的要素も含む)と明治初期の激変する経済環境への適応失敗が原因でした。これは旧来の両替商的経営の限界を示す事件となりました。

一方、より慎重で保守的だった三井は第一国立銀行での経験を経て自らの信用とネットワークを基盤に純粋な民間銀行を立ち上げる道を選びました。この「分かれ道」が、その後の日本金融史の骨格を形作ったのです。第一国立銀行 → 第一銀行 →(勧業銀行などとの合併を経て)→ 第一勧業銀行 → みずほ銀行
この系譜は、まさに「日本で最初に生まれた銀行」が何度も合併を繰り返しながら現代の巨大メガバンクへと続く「生きている歴史の証人」であることを物語っています。

渋沢栄一の肖像

第一国立銀行の旧建物(兜町)明治初期の西洋風建築

第一国立銀行の旧建物

なぜ「銀行」に「銀」が入るのか?

「銀行」という語が生まれた経緯

中国・清代に「銀を行(おこな)う店」という意味で「銀行」という言葉が生まれました(「銀号」も同義語)明治初期、日本で「bank」の訳語を決める際、福澤諭吉は「為替会社」と訳そうとしました。しかし当時の大蔵省(現在の財務省)官僚・渋沢栄一らが、より分かりやすく、また中国の文献にも見られる「銀行」という語を採用したと言われています「江戸は金遣い、大坂は銀遣い」と指摘した通り明治政府の金融制度整備には江戸時代を通じて高度な金融市場を築いていた大坂の商人・両替商の知識と実務が大きく影響しました。全国的な金融制度のベースになったのが「銀遣い」のシステムだったため「銀行」が採用されたのです。

銀行の地図記号は、まさに両替商の分銅(ふんどう) を図案化したものです。これは金融の象徴である「秤(はかり)」を表しています「銀を量る」という行為そのものですね「中央銀行」は「日本銀行」中央銀行は通常「中央銀行」と呼ばれますが日本の場合は「日本銀行」です。これも「銀行」という語が定着した後に設立されたことの名残です。

結論として「銀行」に「銀」が入っているのは言葉の由来として中国語「銀行」を輸入したこと。その語が定着した実務的・歴史的な背景に江戸時代の大坂を中心とした銀貨を使った金融システムがあったこと。この2点が重なった結果でとみます。

銀行の地図記号(分銅由来)

現代の銀行を見ても、こんな歴史が隠れているなんて本当に面白いですよね。

「ジキル島の闇」あなたのお金は誰のものか?

 

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