「女王の岩に潜む亡霊」植民地・王室・テロの交錯する呪縛

アイルランドの北西部、スライゴーの海岸線にそびえるベンブルベンの山は、まるで神々が切り落とした巨大なテーブルを思わせる。

標高わずか五百二十七メートルとはいえ、その平らな頂と急峻な崖は遠くから見ればはるかに高く見え古代ケルトの伝説では巨人が剣で一刀両断したと語り継がれている。

その山裾に広がる緑の牧草地を越え大西洋の荒波が打ち寄せるマラモア半島の先端にクラスィバーン城は佇んでいる。

黄褐色の砂岩で築かれた四角い塔と尖塔がビクトリア朝の威厳を今なお保ちながら風雨に晒されて少しずつ色褪せていく。

城の背後にベンブルベンが聳え、朝霧の中ではまるで浮かぶ幻の宮殿のようだ。この風景を前にすると、ただの石と草の組み合わせ以上のものが胸に去来する。土地が語り始める長い長い物語だ。

物語は十七世紀に遡る。

ゲール系の名門オコナー・スライゴー家は中世からこの地方を治めていた。スライゴー城を拠点に詩人や戦士を庇護しケルトの血と文化を誇っていた。

しかし一六四一年、アイルランド全土でカトリック勢力がイングランドのプロテスタント支配に反旗を翻した。反乱は鎮圧されオコナー家の所領は没収された。代わりに与えられたのは反乱鎮圧に功のあったイングランド人貴族サー・ジョン・テンプルだった。

彼は初代パーマストン男爵に叙せられ四千ヘクタールもの広大な土地を手に入れた。ベンブルベンのふもとマラモアの荒れ地もその一部だった。こうしてアイルランドの土はケルトの手からアングロサクソンの手に移り植民地支配の第一歩が刻まれた。没収された土地にはイングランドやスコットランドからの入植者が送り込まれゲール語は次第に後退していった。

十八世紀が過ぎ十九世紀に入るとパーマストン家はさらなる栄華を極めた。第三代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは一八五五年に英国首相に就任し帝国の拡大に辣腕を振るった男だった。クリミア戦争を勝利に導きオスマン帝国を支えヨーロッパの勢力均衡を操った。

彼はアイルランドの所領を単なる収入源ではなく貴族の別荘地として見据えていた。一八六〇年頃、城の建設が始まった。設計はダブリンの建築家J・ロウソン・キャロル。ドネガル産の黄褐色砂岩を運ばせ尖塔と胸壁を備えたスコットランド風の城郭を築いた。工事は十四年続き、一八七四年にようやく完成した。

パーマストン自身は完成の九年前、一八六五年にロンドンで息を引き取っていたが遺志を継いだのは義理の息子ウィリアム・カウパー=テンプルだった。彼は初代マウント・テンプル男爵に叙せられ城の名をクラスィバーンと定めた。ゲール語で「クラス・ナ・バーン」は「女王の岩」を意味する。城の近くにそびえる岩壁に因んだ名だった。

城は完成と同時にビクトリア朝の華やかな社交場となった。夏になるとロンドンの貴族たちが船でスライゴー湾にやって来て狩猟と舞踏会を楽しんだ。マラモアの港も整備され小さな漁村は一氣に国際的なリゾート地に変貌した。しかしその華やかさの裏でアイルランドは苦しんでいた。

一八四五年から四七年、大飢饉が島を襲いジャガイモの疫病で百万人以上が餓死し、さらに百万人以上が新大陸へ移民として流出した。スライゴー県も例外ではなく農民たちは地主に高い地代を払いながら飢えに耐えていた。クラスィバーン城の窓から見える緑の丘は表面的には牧歌的だったが、その土の下には飢餓の記憶が沈殿していた。

二十世紀に入り城の所有者は変わった。一九一四年、ウィリアム・カウパー=テンプルの養女モードが相続し彼女の夫ウィルフリッド・アシュリーが管理した。アシュリーは保守党の政治家で第一次世界大戦では陸軍大臣を務めた男だった。彼の娘エドウィナ・アシュリーは一九二二年に海軍士官ルイス・マウントバッテンと結婚した。マウントバッテンはインド最後の総督となり後に初代マウントバッテン伯爵に叙せられる人物だった。

一九三九年、モードの死去により城はエドウィナとルイスの手に渡る。二人は城を近代化し電気と水道を引き暖房設備を整えた。夏の休暇はここで過ごすのが習慣となりエドウィナの娘パトリシアと孫のニコラス、ティモシーも共にやって来た。城の庭ではクリケットが催され海ではヨットが白い帆を広げた。ベンブルベンの影が長く伸びる夕暮れ、家族は暖炉の前で紅茶を飲み詩人W・B・イェーツの詩を朗読した。イェーツはこの山を愛し「ベンブルベンの下で」という詩を残している。城は王室とも縁が深く若き日のエリザベス王女の叔父であるマウントバッテンのもとフィリップ王配の幼少期の思い出も刻まれた。

しかし平和は長く続かなかった。

一九六九年、北アイルランドでカトリックとプロテスタントの対立が爆発し「トラブルズ」と呼ばれる内戦状態に突入した。アイルランド共和軍(IRA)は英国からの完全独立を掲げ爆弾テロを繰り返した。マウントバッテンは海軍大将として第二次大戦を戦い抜いた英雄だったがIRAにとっては「英国帝国主義の象徴」に他ならなかった。

一九七九年八月二十七日、運命の日が訪れた。マウントバッテン伯爵はいつものようにマラモア沖の小さなボート「シャドウV」に乗り孫のニコラス、ポール・マクスウェルという地元の少年、そしてニコラスの祖母ドリーン・ブラボーン夫人を伴って蟹籠を仕掛けに出かけた。午前十一時四十五分、ボートが湾を出て間もなく爆発が轟いた。

IRAが前夜に仕掛けた五十ポンドの爆弾が遠隔操作で起爆されたのだ。ボートは木っ端微塵に吹き飛び四人が即死した。ニコラスは十四歳、ポールは十五歳だった。ドリーン夫人は重傷を負い翌日息を引き取った。マウントバッテンは八十歳の誕生日を目前に控えていた。

この暗殺は世界を震撼させた。

英国王室は深い悲しみに包まれエリザベス女王は国葬を執り行った。IRAは犯行声明を出し「マウントバッテンはアイルランド人民に対する犯罪の責任を負うべきだった」と主張した。しかし同じ日ウォーレンポイントでIRAが仕掛けた別の爆弾で英国兵十八人が死亡しており報復の連鎖は止まらなかった。クラスィバーン城は事件後、閉ざされた。マウントバッテン家の夏の別荘は血の記憶に塗れた廃墟と化した。

城は十二年間、空き家のままだった。

一九九一年、実業家のヒュー・タニーが一千二百ヘクタールの土地と共に城を買い取り大規模な修復を行った。尖塔は補強され窓枠は新しくされ内部も居住可能な状態に戻された。しかし一般公開はされず今も私有地として佇んでいる。マラモアのビーチから望む城の姿は遠く霞むベンブルベンと共に、まるで絵画のようだ。

二〇一五年、チャールズ皇太子(当時)とカミラ夫人が訪問し事件現場の海に花輪を捧げた。Netflixのドラマ「ザ・クラウン」シーズン四でもこの悲劇は描かれ世界中の視聴者が再び城の名を耳にした。

今、城の前を通る観光客はフェンス越しにその姿を眺めるだけだ。風が草原を渡り波が岩を叩く。ベンブルベンは変わらずそこにあり千五百万年前の氷河が削り取ったその姿は人の営みの儚さを嘲笑うかのようだ。

オコナー家の栄光、パーマストンの野心、マウントバッテンの悲劇、そしてイェーツの詩。すべてがこの一枚の風景に重なり歴史は息づいている。城の石は語らないが山は語る。土地は語る。アイルランドの魂は、ここで永遠に脈打っている。

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