人類の歴史は情報と説得の歴史でもある。
古代ローマの元老院で響き渡った雄弁術から中世の宗教画が描いた天国と地獄、そして現代のソーシャルメディアを賑わす数秒間の動画に至るまで人々は常に何らかの形で「語られる現実」に囲まれ、時に導かれ、時に翻弄されてきた。
この「語られる現実」すなわちプロパガンダは嘘やギマンより複雑で時に無自覚にすら生成される現実認識の枠組みそのものである。
人類は果たして、その罠から逃れ真実にたどり着くことができるのだろうか。
プロパガンダの本質は情報の欠如ではなく情報の枠組みの操作にある。
それは一部の真実を強調し他の真実を曖昧にし解釈の方向性を巧妙に誘導する。
かつてナチス・ドイツがアシュケナージをスケープゴートに仕立て上げたのは当時のドイツが抱えていた経済的困窮や社会的屈辱という「真実」の土壌の上に特定の解釈の枠組みを被せたことに他ならない。
ソーシャルメディアのフィードで目にするのも同根の現象だ。
アルゴリズムは人類の既存の信念や感情的反応を増幅するように設計された「部分的な真実」の断片を絶えず供給し、それらが集合して一個の強固な現実を構築する。
それはもはや特定の権力者による陰謀というよりもテクノロジーと認知バイアスが共鳴して生じる巨大な生態系のようなものである。
では、このような状況において「人類に真実を伝える」とはどういうことだろうか。
それは「正しい事実」を羅列することではない。
なぜなら事実は常に受け手の世界観というフィルターを通して解釈されるからだ。
真実を伝えるための第一歩は自分自身が無意識に内面化している信念、偏見、感情的傾向を不断に点検することにある。
自分がなぜ特定の情報にすぐに同意し別の情報には強い拒絶反応を示すのか。
その感情の源泉は何か。
それは過去のトラウマなのか所属集団への忠誠心なのか、あるいは慣れ親しんだ思考の癖なのか。
この自己への問いはプロパガンダの最初の防壁となる。
第二に、情報の生態系そのものに対する健全な懐疑心を養う必要がある。
あらゆる情報には送り手が存在し、その送り手には何らかの意図があり、それが商業的なものであれ政治的なものであれイデオロギー的なものが存在する。
この意図を読み解くことは情報の内容そのものを精査することと同様に重要である。
メディア・リテラシーとは情報が発信される文脈、資金の流れ、そして目標とする聴衆を理解する総合的な能力なのである。
歴史を振り返ればベトナム戦争時のアメリカ政府の発信や冷戦期の双方の陣営による情報工作は情報の文脈を理解することの重要性を如実に物語っている。
さらに真実とは往々にして単純明快な物語ではなく矛盾と複雑性を内包したものであることを認めなければならない。
人類は物語る生き物であり複雑な現象を単純な因果関係で説明したがる傾向がある。
プロパガンダは、この心理的隙間を突く。
経済問題を民族や集団のせいにする物語、複雑な国際紛争を善と悪の二元論で塗り分ける物語、それらは理解を容易にし一時的な安心感を与える。
しかし真実はそのような物語の隙間からこぼれ落ちる。
真実を伝えるという行為は時に明確な答えを提供できないことグラデーションの存在を提示すること、そして「知らないこと」を認める勇氣を持つことなのである。
最終的にプロパガンダの罠から抜け出すための鍵は受動的な情報消費者の立場から能動的な探求者の立場へと自らを移行させることにある。
それは異なる意見に耳を傾ける忍耐力、自身の考えを更新する柔軟性、そしてエコーチェンバー(共鳴室)の外に意識的に出て行く努力を要求する。
インターネットは史上最大の情報源であると同時に史上最大のプロパガンダ拡散装置たりうる。
その可能性をどちらに活かすかは結局のところ1人1人の人間の意識と選択にかかっている。
人類がプロパガンダに「騙されている」という認識は重要な出発点である。
しかし、それは終着点であってはならない。
騙されているという受動的な状態から、どのようにして能動的な認識の主体へと立ち上がるか。
そのための不断の内省、批判的思考、そして複雑さを受け入れる知性的な誠実こそが混沌とした情報時代において人類が互いに伝え合うべき最も重要な「真実」なのかもしれない。
真実はしばしば心地よい嘘よりも不便である。
しかし、その不便さを受け入れるところにのみ自律した責任ある生の可能性が開けてくる。
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