ウィットビー修道院の廃墟がゴシック文学の象徴として、あるいはブラム・ストーカーの『ドラキュラ』に決定的なインスピレーションを与えた聖地として語られるとき人類は観光地的な叙述を超えて、その地層のように積もった歴史的文脈と人間の無意識が投影された文学的意味作用の深淵を覗き見なければならない。
この崖上の廃墟は小説の舞台となったという以上に、その物理的存在そのものがゴシックというジャンルの本質なのだ。
聖と俗、歴史と現在、理性と狂氣、生と死の境界線が溶解する「異界への扉」として機能したのである。
ストーカーが1890年の夏をこの地で過ごしたという事実は文学史上の偶発的な逸話ではなく、ある種の必然的なカイコウであったと言えるだろう。
なぜならウィットビー修道院は、すでにその時点で数百年にわたる時間の風化によって自らを一つの「テクスト」として過去からのメッセージを刻み込まれた記念碑を成立させておりストーカーはただそこに内在する物語を「発見」し文字へと翻訳したに過ぎないからである。
その翻訳作業の核心は、まさに「廃墟」という特異な様態にこそあった。
ヘンリー8世による修道院解散令(1539年)によって宗教的な生命を絶たれ後に戦火によって更に損なわれたこのゴシック建築は、もはや機能を失った「骸骨」であった。
この骸骨こそがゴシック・リヴァイヴァルの時代を生きるヴィクトリア朝の知識人にとって逆説的に最も強力な想像力の触媒となり得た。
完全な建築はその機能と目的によって意味が固定されるが廃墟は意味が解放され多義的で時に矛盾する解釈を許容する「空虚」を内包する。
ストーカーがその廃墟に見たのは、かつての信仰の中心としての輝かしい歴史であると同時に、その歴史がジュウリンされ打ち捨てられたという暴力の記憶であった。
この二重性である光と影の共存が神への信仰から疎外されながらも永遠の生命を手にしたドラキュラ伯爵という矛盾に満ちた存在の完璧な寓意的舞台となったのである。
修道院は聖域であると同時に聖域が冒涜された場所であり、そこには「神の死」の影が既に落ちていた。
これは科学的合理主義が台頭しながらもスピリチュアリズムやオカルトへの関心が渦巻くヴィクトリア朝社会の精神的亀裂を見事に体現する風景であった。
さらに重要なのはストーカーがこの廃墟を孤立したオブジェクトとしてではなく北海の荒波が打ち寄せる断崖という劇的な自然環境と不可分のものとして捉えた点である。
小説においてドラキュラの船が嵐の後に漂着するという劇的な導入は、この地形なくしては考えられない。
199段の石段は海(異界)から町(現世)へ、あるいはその逆へと至る一種の儀式的な通路なのである。
この垂直性は物理的な高低差を超えて精神的、象徴的な次元を持つ。
トウハン行為そのものが日常的な世界から非日常的な領域への移行、つまり「リミナリティ(過渡性)」の体験を訪れる者に強いる。
ストーカー自身がこの階段を昇り降りする中で、その身体的感覚を以て主人公ジョナサン・ハーカーがトランシルヴァニアの奥地へと向かう旅途の不安や伯爵が新たな狩場としてロンドンに上陸する際の不氣味な移動感覚を構築した可能性は極めて高い。
文学創造の源泉が時に書斎の思索ではなく、こうした身体的な場所との接触から湧き上がることは創作論上、看過できない事実である。
そしてウィットビー図書館での「発見」
15世紀ワラキア公ヴラド三世(串刺し公)の存在を知りその異名「ドラクル」を物語の核心に据えたというエピソードは、この地が持つ磁力の強さを物語る。
偶然の産物というより廃墟が放つ「歴史の重み」という磁場に彼の研ぎ澄まされた作家的アンテナが時空を超えて共鳴した結果と言える。
東欧の血塗られた史実が英国の片田舎の廃墟と結びつき普遍性を持つ恐怖の物語へと昇華されたのである。
この融合こそが『ドラキュラ』を怪奇小説の域から西欧文明が抱える異物への恐怖、性的抑圧、帝国の衰退への不安など、より深層の社会的心理を描き出した文学的傑作へと押し上げた原動力であった。
現代において、この廃墟が「イングリッシュ・ヘリテージ」によって管理され、あるいは「ゴス・ウィークエンド」という形でポップカルチャーに飲み込まれている現象は、この場所の意味作用が固定化されるどころか更に新たな層を積み重ねている証左である。
観光地化はある種の陳腐化をもたらす可能性もあるが同時に、かつてストーカーが体験したのと同じ「場所の力」が今も訪れる者を惹きつけてやまないことを示している。
イルミネーションに浮かび上がる廃墟の輪郭はヴィクトリア朝のガス灯の時代から連綿と続く闇と光の戯れの現代版なのである。
結論としてウィットビー修道院は歴史的遺構としての価値、文学の聖地としての名声を超えて人間が「越境」の可能性を夢想するための一個の強力な装置的空間なのである。
その石壁は過去からの囁きと未来への問いを同時に反射する巨大な共鳴器なのである。
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