6世紀後半から7世紀初頭、仏教伝来以前の日本列島で渡来系須恵器制作集団は火葬という新たな死生観を根付かせようとしていた。
当時の大和朝廷では、巨大な前方後円墳に象徴される土葬文化が隆盛を極めていた。
権力者たちは豪華な副葬品とともに大地に眠り、その死後の栄華を誇示した。
そんな中で考古学者たちは興味深い痕跡を発見する。
大阪府堺市の陶器千塚古墳群に点在する「カマド塚」と呼ばれる特異な遺構だ。
これらの墓穴からは明らかに人為的な焼灼を受けた人骨が出土し当時としては画期的な火葬の証拠となっている。
この謎を解く鍵は、彼らが持ち込んだ窖窯(あながま)技術にある。
朝鮮半島から伝わった須恵器制作技術は従来の野焼きとは異なり1200度近い高温を安定的に維持できる本格的な窯を特徴としていた。
興味深いことに、これらの窯跡からは時に焼けた人骨が発見され生産施設と葬送施設の不思議な共存を示している。
技術的考察から浮かび上がるのは、これらの渡来人集団が陶工ではなく火を操る「聖なる技術者」としての側面を持っていた可能性だ。
窖窯で培った高温制御技術は、土器焼成を超え遺体を灰へと変容させる儀礼的実践へと発展した。
出土した火葬骨が須恵器の壺に丁寧に納められている事例は彼らが独自の死生観と葬送儀礼体系を持っていたことを示唆する。
歴史の皮肉とも言えるのが、この火葬実践が仏教伝来以前にすでに日本列島で行われていたという事実だ。
従来の通説では日本における火葬は702年の持統天皇火葬に始まるとされている。
しかし考古資料は、その少なくとも100年前に渡来系集団によって小規模ながら確実に火葬が行われていたことを物語っている。
この知られざる技術集団の営為は、日本の葬送文化史を書き換える重要な一章と言えるだろう。
彼らは窯の炎で死者を送るという新たな儀礼を、仏教とは異なる文脈で日本社会に導入した先駆者だったと言える。
高温焼成技術と葬送儀礼の意外な結合は、古代技術と精神性の深い結びつきを如実に示す事例として現代に多くの示唆を与えている。
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