歴史は繰り返さない。繰り返すのは学ぶことを拒む一人ひとりだ

歴史は確かに「権力は腐敗する」と警告する。だが真の教えは、その先にある。

権力は腐敗するが腐敗は権力だけの病ではない。

腐敗は自らの無力さを権力のせいにする者にも忍び寄る。
「選挙は変わらない」「どうせ誰も同じだ」と諦めた瞬間、人類は自ら思考する力を放棄し腐敗を許容する温床となる。

権力者が罪を犯すのは人類が監視を怠った時だけではない。一人一人が「監視する意味すら失った」と信じ込んだ時、民主主義は最も深く蝕まれる。

日本政治の腐敗連鎖が示す真実は二つだ。
第一に制度が腐敗者を選ぶという残酷な力学。小選挙区制の死票、硬直的な組織票、カネと地縁が生む政治的無責任。

これらは腐敗を「個人の倫理問題」から「システムの必然的産物」へと昇華させる。

第二に人類の記憶の脆さ。リクルート事件ロッキード事件も国民は激怒した。だが時間が経つと「どの政治家も似たもの」という虚無が蔓延する。この記憶の風化こそ世代を超えて再生産する装置なのだ。

では、どう戦うか。

まず制度そのものへの絶え間ない疑いだ。
選挙制度、政治資金規制、情報公開法。これらの「ルールを作るルール」を人類が監視しなければ権力は常に自分に都合の良いルールへと歪めてゆく。不正をした個人を罰するだけでは不十分だ。不正を生み出す土壌そのものを耕し直さねばならない。

次に日常的な監視の民主化だ。
監視とは四年に一度の投票だけではない。地方議会の議事録を知り補助金の流れを追い政治家の交友関係に目を光らせる。

そんな地味な努力の積み重ねが権力の傲慢に楔を打つ。SNSは時に分断を助長するが同時に「誰もが検証者となり得る」という新たな可能性も開いた。

だが民主主義は絶対に譲れない一線を必要とする。金権政治、虚偽の説明、責任の回避これらを「政治の常識」として受け入れた瞬間、政治は国民を奴隷とする。

歴史は繰り返す、と言うな。

繰り返すのは人類が歴史から学ぶことを拒む時だ。ロッキード事件から半世紀、リクルートから四半世紀、その度に「もう二度と」と誓いながら、なぜ同じ過ちが形を変えて現れるのか。それは人類が腐敗を「特定の悪い人間の問題」と矮小化し腐敗を生み出す人間そのものの弱さと、それを増幅するシステムの欠陥から目を背け続けてきたからではないか。

目を覚ませ。

権力の腐敗と戦うとは他者の中の悪と戦うことではない。それは自分自身の中に潜む「諦めたい」という誘惑と戦うことだ。「どうせ変わらない」という無力感「面倒だ」という怠慢「自分だけは大丈夫」という傲慢。

これらは権力者を蝕む毒と同じ分子でできている。

人類は権力者を監視する以上に自らの無関心を監視せねばならない。

希望は楽観ではない。
希望とは、たとえ歴史が繰り返そうとも繰り返さないという意志のことだ。

アクトンの警告権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗するを胸に刻むとは過去の腐敗を次に権力が腐敗する時どうするかを今から決めておくことだ。

民主主義とは完成したシステムではない。
それは未完の建築物を世代を超えて建設し続けるプロジェクトである。
雨風に晒され腐った木材は取り換え脆弱な基礎は補強し設計の欠陥は修正してゆく。それが民に与えられた唯一の戦い方だ。

権力は腐敗する。
ならば腐敗しない監視者となれ。
制度は硬直する。
ならば柔軟な改革者となれ。
記憶は風化する。
ならば忘れない記録者となれ。

この戦いに終わりはない。
だが終わりがないからこそ今日という日にはじまりがある。

この教えを刻み、そして刻んだ者として生きよ。

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