ハーバート・ポンティングによって1910年に撮影された「En Deshabille」は、芸者の日常において稀有な瞬間を捉えた写真作品である。
この写真は複雑な髪型に整えられる直前、髪を洗った直後の芸者を写し出しており公の場で披露される藝術的完成形と私的空間での準備行為という2つの世界の狭間に立つ彼女の姿を印象的に伝えている。
通常は芸者と不可分である化粧や装飾の層が取り払われたこの画像は象徴や儀式に包まれることの多い存在の、より人間的な側面を浮き彫りにしている。
「ハーバート・ポンティング」日本を愛した英国人写真家
ハーバート・ジョージ・ポンティング(1870-1935)は英国出身の写真家であり明治時代に『この世の楽園 日本』(”In Lotus-Land Japan”)という写真集を発行した人物として知られる。
彼はまた1910年から1913年にかけてのロバート・スコットの南極探検隊の写真家、映画撮影技師としても歴史に名を残している。
ポンティングは銀行員としてのキャリアを歩み始めたが、やがて写真家に転向。
1901年から数年にわたり写真の依頼を受け世界各地を旅行し1904-5年には日露戦争の写真を撮影した。
その後、英語系の雑誌社のためにアジアを旅しフリーランス写真家として活躍する中で日本に深い関心を抱くようになった。
1901年から1902年頃から何度か来日し日本中を旅して日本の芸術や風物、自然に親しみ正確に日本を理解していた数少ない知日家であった。
ポンティングは1910年に『この世の楽園 日本』をロンドンで発行。
この本は外国人として初めて日本陸軍に従軍し日露戦争に参加した経験と3年間にわたる日本滞在の体験から得た日本観、日本人観が鮮明に描き出されている。
芸者:日本文化の守護者
芸者という名前は「藝術を担う者」を意味し18世紀から日本の文化生活において中心的な存在であった。
彼女たちは芸妓としての道を「舞妓」としての初歩的な訓練から歩み始める。
古典音楽、季節の踊り、洗練されたマナー、そしておもてなしの藝術の微妙なニュアンスを学ぶことすべてが、その修業の道であった。
お茶を出すことや会話のリズムなど、それぞれのしぐさは規律と献身を反映していた。
宮廷人とは異なり彼女たちの役割はロマンスではなくパフォーマンスと交流、そして日本の伝統を最も優雅な形で保存・伝承することにあった。
彼女たちの象徴的なイメージである白く塗られた顔、華麗な髪型、上質に織られた着物は彼女たちをすぐに認識できるようにした。
しかし、ポンティングのこの写真は藝術の背後には日常、犠牲、そして強靭さの生活もあったことを思い出させてくれる。
「明治時代の髪型」日本髪から束髪へ
ポンティングが日本を訪れた明治時代は日本の髪型文化が大きく変容した時期であった。
従来の日本髪と洋風の髪型が共存し流行のスタイルが次々と登場した時代でもある。
日本髪は広義では古墳時代から昭和戦前までの日本固有の髪形を指す。
特に女性の結髪は安土桃山時代後期から幕末までに多様な様式が発展した。
明治時代に入ると洋風化の影響で男性はほとんどが洋髪となったが女性の場合は洋風の髪型が登場し始めた一方で折衷ともいえる束髪、夜会巻き、耳隠しなどの洋服・和服双方に合う髪型も考案された。
明治18年に提案された新しい髪型「束髪」は日本髪と共存しながら昭和初期頃まで日本中の女性に親しまれた。
束髪は日本髪よりも簡易に結べて軽快、衛生的で経済的であることが特徴だった。
束髪の一種で明治35年頃に流行したのが前髪が特徴的な「廂髪(ひさしがみ)」であった。
その名の通り前髪が建物の廂のように大きく張り出しており、入れ毛や芯を入れてボリュームを持たせたこの髪型は、まず明治35~36年頃に女学生の間で流行した。
明治37年には日露戦争が勃発。
激戦地であった二百三高地を奪取した同年12月と廂髪の流行が重なったことから、この時期には髷を頭頂部で高く結い上げ前髪を廂髪にする髪型が「二百三高地髷」と呼ばれるようになった。
二百三高地髷は和装にも洋装にも似合うとして夜会などでドレスを着る必要があった裕福な妻女をはじめ、女中や子守の女性たちにも広がった。
しかし、廂髪のように技巧的で大ボリュームの髪型が登場すると日本髪と同じようなお手入れが必要となり頻繁な結い直しも難しいということで当初の束髪の条件として掲げられた「衛生的で経済的である」髪型とはかけ離れてしまった。
当時の雑誌では「実用を無視、美観に重きを置いている」とも評された廂髪は大正時代まで結われ続けることとなる。
ポンティングのレンズが捉えた真実
ポンティングの「En Deshabille」は、こうした髪型の流行や芸者という存在の公的な側面とは対照的な私的な瞬間を捉えた作品である。
複雑な髪型に整えられる前の髪を洗った直後の状態は芸者という存在の芸術的完成形への過程を窺わせる。
ポンティングは王立地理学会のフェローに選出されるなど当時から高く評価された写真家であった。
彼の写真技術は自分で修得したもので特に正式な教育を受けていたわけではないが1900年にサンフランシスコ湾を写した写真が世界大賞を受賞するなど、その技術は国際的にも認められていた。
ポンティングは南極探検の後、目立った活躍はなく事業的才覚に欠けていたこともあって晩年には経済的にも行き詰っていたようである。
1935年2月7日、65歳で永眠した。
しかし、彼が残した写真作品、特に日本と南極を題材としたものは後世まで貴重な視覚的記録として評価され続けている。
現代に続く芸者の文化
芸者の数は減少しているが芸者の家や地域、特に京都の祇園では芸者の音楽、動き、そして精神が100年以上経っても響き続ける生きた博物館として残っている。
彼女たちの伝統は現代においても日本の文化遺産として重要な位置を占め続けている。
ポンティングの「En Deshabille」は、そうした伝統の継承者である芸者の公的な顔と私的な顔の両方を窺わせる貴重な視覚的記録である。
この写真は歴史的な瞬間を記録しただけでなく藝術を追求する個人の人間性をも感じさせてくれる作品として今日も多くのことを語りかけている。

私物(誰かわかる方メッセージください)花房
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