「韓」から「高」へ氏姓改変は裏切りか生き残り戦略か『日本霊異記』が記録した渡来人アイデンティティの書き換え現場

大阪府柏原市、高井田横穴公園の片隅に、ひっそりと佇む高井田田山古墳は訪れる者の目を引く華麗さとは無縁である。この古墳の石室に手を触れる時、和多志たちは五世紀後半の朝鮮半島に耳を澄ませることになる。出土した「ひのし」古代のアイロンは百済武寧王陵のそれと寸分違わぬ姿で横たわり横穴式石室の構造は遥か彼方の百済王都の技法を忠実に再現している。考古学者たちは長らく、この古墳の被葬者を「百済王族クラスの人物」と推定してきた。夫妻を同じ石室に葬る習俗は日本列島の伝統にはなく、まさに半島そのものの息遣いを伝えるものだからだ。

この高井田山古墳が問いかけるのは「コウ」という姓氏に凝縮された二重、三重のアイデンティティの重層性である。百済の王族として生まれながら日本列島に骨を埋めた人物は自らを何と呼んだのか。その子孫は何を語り継ぎ、何を沈黙したのか。

そして蘇我氏を滅ぼした天智天皇と百済遺民を抱擁した天武天皇の狭間で彼らはいかにして自己の存在理由を紡いだのか。

『新撰姓氏録』は古代日本に渡来した多くの「高(コウ)」姓氏族の存在を伝えている。この「高」という表記の奥には少なくとも三つの異なる出自の記憶が折り重なっている。一つは高句麗滅亡後に列島へと渡った高句麗系渡来人である。彼らは最終的に武蔵国へ集結し高麗郡の成立へと結実する。もう一つは百済滅亡に前後して来朝した百済系渡来人であり、その中には百済王族に連なる「百済王氏」として遇された者たちもいた。そして三つ目が文禄・慶長の役において姜沆とともに連行され、やがて愛媛の地で「姜」から「高」へと姓を変えた後裔たちである。

ここで注目すべきは2022年に韓国の『先史と古代』誌に発表された朴海炫の画期的な研究である『大僧正舎利瓶記』という稀有な史料の分析から奈良時代の高僧・行基の俗姓が「高志」であり、その出自が百済の王仁博士の後裔である可能性を論証した。行基の故郷、河内国には王仁の後裔を称する氏族が多く集住し西琳寺、葛井寺、野中寺といった氏寺を建立して数百年にわたって百済系としてのアイデンティティを守り続けた。行基自身もまた渡来人を迎え入れるための宿泊施設を整備し馬の飼育や窯業遺跡など、まさに百済の文化を体現する生活空間をその周囲に形成していたのである。

行基の存在は七世紀後半から八世紀初頭にかけての百済系渡来人の運命を象徴している。天智天皇の死後、大海人皇子(天武天皇)と大友皇子の間で勃発した壬申の乱において百済系渡来人と百済滅亡後の新来移民は天武天皇を一貫して支持した。天武天皇はこれに応え白村江の戦い後に大量に流入した百済遺民の王族・貴族層を自らの影響下にある地域へ移住させ積極的に官職を授けた。

これは皇子時代から蘇我氏を倒した天智天皇よりも、むしろ天武天皇こそが百済系勢力にとって「自分たちの天皇」であったのである。

しかし天武朝の終焉とともに状況は一変する。天武天皇の子・草壁皇子の妃から権力の座に上り詰めた藤原不比等は百済系渡来人と百済遺民に対して組織的な圧迫を加えた。壬申の乱の「勝ち組」であった彼らは、ここに至って新たな支配エリートの標的となったのである。それでもなお百済系渡来人と遺民のアイデンティティは容易に揺るがなかった。彼らは藤原不比等の弾圧に抗して結束し、その精神的支柱として行基を戴いた。行基こそ王仁の後裔という伝統的権威と在地での実践的活動を通じて百済系ネットワークを結ぶ「生ける象徴」だったのである。

しかし行基が没すると状況は急速に変容する。王仁の後裔たちの中から自らの出自を「百済系」から「漢系」へと書き換えようとする動きが現れ始めた。日本政府もまた百済遺民には「百済王氏」という新姓を下賜し渡来人後裔には『新撰姓氏録』への登録を通じて天皇制国家の内部に秩序づけようとした。ここに自発的な同化と国家による制度的管理が交錯する極めて日本的な「多文化共生」の原型が形成されたのである。

この視座は五世紀の高井田山古墳と八世紀の行基と、そして十六世紀の姜沆一族を一つの連続線上に置くことを可能にする。姜沆は大洲藩で幽囚の身となりながら『看羊録』を著し、儒学者としての誇りを決して手放さなかった。その子・姜文興は藩医として遇され明治以降、一部の後裔は「姜」から「高」へと姓を変えた。これは律令制下で「高志」から「高」へ、あるいは「韓」から「高」へと改姓した古代の渡来人と、まったく同じパターンを示している。姓は変えても出自の記憶は姓氏の片隅に痕跡を残す。河内の百済系氏族が西琳寺を建立したように大洲の姜氏は墓を残した。目には見えにくいが確かに存在する「記憶の考古学」である。

さらに興味深いのは、これらの一族が受容者ではなく日本国家の形成そのものに能動的に関与した点である。継体天皇の即位と樟葉宮の造営に百済系渡来人が深く関与した可能性は枚方市周辺の考古遺跡と文献の精査から浮かび上がってくる。高麗郡の建郡においては渡来系技術者たちが高度な手工業生産を担い「高麗錦」のような幻の織物を生み出した。列島の産業構造そのものを変革するイノベーターだった。大県・大県南遺跡で検出された地上式の鍛冶炉は百済の技術者がもたらした最新鋭の生産設備であり、その操業開始はまさに高井田山古墳の被葬者がこの地に足を踏み入れた時期と重なっている。

ここに一つの仮説を提示したい。

朝鮮半島の複数の国家。高句麗、百済、高麗に由来し異なる時代に来朝し、時に競合し、時に連帯しながら日本列島の中で独自の「渡来人アイデンティティ」を形成した人々の総体としての呼称なのではないか。彼らは「百済系」「高句麗系」「高麗系」という出自の違いを内包しつつも王仁の後裔という伝説的系譜や行基という歴史的カリスマを媒介として緩やかな帰属意識を共有した。そして、その帰属意識の最も具体的な表象が姓氏としての「高(コウ)」だったのである。

高井田山古墳の被葬者は百済王族として生まれながら、その名を歴史に残さなかった。行基は「高志氏」の出自を持ちながら自らを王仁の末裔と称した。姜沆の子孫は「姜」を「高」に改め語ることと語らぬことの境界線上で自らのアイデンティティを選択してきた。

大阪平野を一望する高井田山古墳の石室は今日も開口している。百済の風を孕んだ「ひのし」はガラスケースの中で光を反射し五世紀の記憶を宿している。人類が目を開く時、土の中から立ち現れるのは遺物ではなく名もなき人々の誇りと決断である。その誇りの痕跡に和多志たちが付す仮の呼称に過ぎない。

古代日本の葬送文化に革命を起こした「須恵器制作集団」たち

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