この物語は、とある男の生き様である。
フリーメイソンのロッジルームに足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
重く、冷たく、しかしどこか懐かしい匂いが漂う。
それは何世紀も前に切り出された石の記憶であり消えかけた松明の煙の名残であり、無数の男たちがここで交わした誓いの言葉そのものだ。
天井から吊るされた星座図が微かに揺れ、その影が壁を這う様は、まるで古代の叡智が今も脈打っている証のようである。
ソロモン神殿の面影を宿したこの空間には入り口で二本の柱が威厳をもって立ちはだかる。
右のヤキンは「神は堅固にされる」と囁き、左のボアズは「力の中に」と応える。
その間に立つ者は突然自分がどれほど小さな存在か思い知らされる。
柱に刻まれた紋様は指でなぞるたびに遠い昔に失われた神との契約の痕跡を感じさせ胸の奥に鈍い痛みを走らせる。
東の方角にはマスターの椅子が置かれ朝日が差し込むように設計されている。
しかし現実には、その椅子は常に空虚で待ち人が来ない王座のように映る。
太陽の光は窓から差し込むのではなく、どこか見えない場所から漏れ出てくるようで壁に映る影は常に揺らめき確かなものを掴ませてはくれない。
この部屋の幾何学模様は完璧なはずなのに、なぜか足元が不安定に感じられる。
それは己自身の心が歪んでいるからだと、どこからか声が聞こえてくるようだ。
中央の祭壇にはコンパスと直角定規が置かれ、冷たい金属の光を放っている。
手に取ればその冷たさが指先から全身に伝わり自分がいかに熱に浮かされた状態で生きてきたか悟らされる。
道具の重みは、これまで背負ってきた罪の軽さを嘲笑うかのようだ。
そして床に描かれた黒白の市松模様は、善と悪、光と闇の永遠の戦いを表しているが、よく見ればその境界は思ったより曖昧で一歩踏み出せば簡単に混ざり合ってしまいそうな氣がする。
儀式が始まると参加者たちの足音が石の床に反響する。
そのリズムは奇妙な共鳴を起こし心臓の鼓動を乱す。
導かれるままに歩を進めるうちに、ふと氣付くこの動きは単なる形式ではなく自分自身の人生の軌跡そのものなのだと。
直線的に歩くよう指示されるが、実際には常にどこかで躓き、よろめいている自分がいる。
それはまるで真っ直ぐな道など存在せず人間は常に迷いながら進むしかないことを暗示しているようだ。
「失われた言葉」を探す儀式では喉の奥が渇く。
かつて神と人間を結んだあの聖なる名は今や瓦礫の下に埋もれ、どれだけ探しても見つからない。
手のひらに残るのは埃だけだ。
しかし不思議なことに探せば探すほど失ったものの大きさだけが明確になり、その空虚感がかえって胸を締め付ける。
仲間たちと交わす合言葉は、その孤独を和らげるどころか逆に孤立を際立たせるだけなのだ。
ロッジの壁には、歴代のメンバーが残した記号が刻まれている。
それらは彼らが味わった苦悩と歓喜の証である。
指でなぞると石の冷たさの向こうに彼らの汗と涙の温度が感じられる。
この壁に何かを刻みたい衝動に駆られるが何を残せばいいのかわからない。
自分にはまだ刻むに足る経験など何もないのだ。
集会が終わり最後の光が消える時ロッジルームは再び静寂に包まれる。
しかしその沈黙は空虚ではなく何かが充満している。
それは次回を待つ期待でも、終わった安堵でもないむしろ、答えのない問いだけが残された重苦しい満たされなさだ。
外の世界に戻ってもロッジの影は離れない。
街灯の光がヤキンとボアズの柱のように見えビルの直線がコンパスと直角定規を連想させ、ふと空を見上げれば、あの見えなかった大建築家の設計図が星空という形で広がっていることに氣付くのだ。
ここは終わりではなく始まりに過ぎない。
しかしその始まりが果てしなく長い道のりであることを知ってしまった。
石工の道具箱の重みは、これから背負うべきものの比喩でありロッジルームのドアをくぐるたびに、あの未完の神殿の一部になっていくのである。
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