日本で習う数学は、つい「西洋発祥の学問」と思いがちだ。
マイナスの数、方程式、ゼロの概念。
それらはすべてギリシャやヨーロッパで生まれたように教えられる。
しかし、これは人類の知の歴史における大きな誤解である。
真実はもっと輝かしく、もっと驚くべきものだ。
実は、負の数の体系的な使用や代数の萌芽は、遥か昔のインドですでに完成されていた。
西洋がようやくその価値に氣づいたのは実に千年以上も後のことなのである。
7世紀のインドに存在した「バクシャーリー写本」は、その証拠の一つだ。
ここには商人の旅の速度計算や借金の記録といった実用的な問題が負の数や二次方程式を使って鮮やかに解かれている。
例えば「初日2単位、毎日3単位ずつ進む旅人」と「初日3単位、毎日2単位ずつ進む旅人」がいつ同じ距離に到達するか。
こんな問題が見事な代数的手法で処理されていた。
現代の数学者が見ても驚くほど洗練されたその解法は「数学は単なる理論ではなく生活に根ざした知恵だった」ことを物語る。
当時のインドでは負の数は「借金」や「不足」を表す日常的な概念として自然に受け入れられていた。
バクシャーリー写本では現代の「-1」に相当する数を「1+」と表記し速度の差や損失の計算に活用している。
これは記号の遊びではなく「見えない量を数として扱う」という人類の思考の大革命だった。
一方、同時代のヨーロッパでは負の数は「存在しない架空のもの」とされ、まともに議論されることさえ稀だった。
キリスト教的世界観が「完全な数」を重視したため欠損や逆方向を表す負の数は長らく異端視されたのである。
さらに驚くべきはインド数学が「ゼロ」の概念を確立した事実だ。
5世紀のアーリヤバタや7世紀のブラフマグプタは、ゼロを単なる空位記号ではなく「他と同じく計算可能な独立した数」として扱った。
彼らは「負×負=正」といった規則も体系化し現代数学の基盤を築いた。
この影響はアラビアを経てヨーロッパに伝わりルネサンス期の科学革命を下支えした。
つまりニュートンやデカルトの偉業の陰にはインドの無名の数学者たちの知恵が流れ込んでいたのである。
しかし、なぜこの真実は広く知られていないのか?
その背景には近代以降の「西洋中心史観」がある。
植民地時代を通じて非西洋の知的貢献は軽視され数学史も「ギリシャ→アラビア→ヨーロッパ」という単線的な物語で語られてきた。
だが、バクシャーリー写本のような史料が明らかにするのは「人類の知の進歩は、複数の文明が交わる網の目状のプロセスだった」という真実だ。
インドで花開いた負の数の知恵はアラビア商人の手でイスラム世界に運ばれ、やがてフィボナッチのようなヨーロッパの先駆者に継承された。
このグローバルな知の連鎖を無視すれば数学の本質を見誤ってしまう。
今、私たちが直面するのは「意識の転換」だ。
数学史を正しく理解することは単なる学問的な興味を超える。
それは「人類の英知は特定の文明の独占物ではない」と氣づくための第一歩である。
インドの商人が負の数で債務を計算したように、中国の数学者が方程式で測量をしたように、アラビアの学者が代数を体系化したように。
知恵は常に文化を超えて共有され進化してきた。
この多様性こそが科学の発展を支えた原動力なのである。
もしあなたが「数学は苦手だ」と感じるなら、ぜひ考えてほしい。
私たちが教科書で学ぶ数式の裏には千年を超える東西の知の交流が刻まれている。
負の数一つとっても、それは単なる抽象概念ではなく「借金に悩んだ古代の商人が生み出した生きた知恵」だった。
バクシャーリー写本が伝えるメッセージは明快だ。
数学とは人類が協働で編み上げた普遍の言語なのである。
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