ウルのジグラート(Ziggurat of Ur)は、古代メソポタミア南部の都市ウルに位置する、シュメール文明を代表する宗教建築物です。
紀元前3千年紀から紀元前1千年紀にかけて、シュメール、バビロニア、アッシリアなどの諸文明の中心地として繁栄しました。
ウルのジグラートは、その中でも特に重要な宗教的・政治的象徴として機能しました。
ウル第三王朝(紀元前2112年~紀元前2004年)の時代に、王ウル・ナンム(Ur-Nammu)とその息子シュルギ(Shulgi)によって建設されました。
この時期は、シュメール文明が政治的・文化的に最も繁栄した時代とされています。
紀元前6世紀、新バビロニア王国のナボニドゥス王(Nabonidus)によって大規模な修復が行われました。
ナボニドゥスは古代の遺跡を修復することで、自らの権威を高めようとしたと考えられています。
ウルのジグラートは、メソポタミアのジグラート建築の典型例です。
その構造は、以下のような特徴を持っています。
ジグラートは3層(一部の記録では4層とも)の階段状の基壇から成り、最上層には神殿が設けられていました。
基壇の高さは約21メートルで、基底部は長方形(62.5メートル×43メートル)です。
日干し煉瓦と焼成煉瓦が使用され、外壁は焼成煉瓦で覆われています。
煉瓦の接合にはアスファルトが使用され、防水性を高めています。
ジグラートの前面には、頂上の神殿に至るための階段が設けられていました。
この階段は、神々に近づくための象徴的な役割を果たしていたと考えられています。
月神ナンナ(Nanna)を祀る神殿として建設されました。
ナンナはウルの守護神であり、ジグラートは神と人間をつなぐ聖なる場所と見なされていました。
ジグラートの建設は、王権の正当性を示すための重要なプロジェクトでした。
ウル・ナンム王は、ジグラートを建設することで自らが神々に選ばれた支配者であることをアピールしました。
メソポタミア全域にジグラート建築のモデルを提供しました。
後世のバビロニアやアッシリアのジグラートも、ウルのジグラートを参考にしたと考えられています。
1920年代にイギリスの考古学者レオナード・ウーリー(Leonard Woolley)によって発掘されました。

The archaeologist and writer Charles Woolley (1880-1960). He led excavations in Carchemish and Ur. (Photo by ? Hulton-Deutsch Collection/CORBIS/Corbis via Getty Images)
ウーリーの発掘により、ジグラートの構造や建設技術に関する詳細な情報が明らかになりました。
ジグラート周辺からは、王墓や貴重な副葬品が発見され、ウルの繁栄を物語る証拠となっています。
現代においても重要な文化的遺産として認識されています。
ユネスコの世界遺産暫定リストに登録されており、古代メソポタミア文明の遺産として保護されています。
しかし、近年のイラク情勢により、遺跡の保存状態は懸念されています。
参考文献
1. Woolley, Leonard. *Ur of the Chaldees: A Record of Seven Years of Excavation*. London: Ernest Benn, 1929.
2. Crawford, Harriet. *Sumer and the Sumerians*. Cambridge: Cambridge University Press, 2004.
3. Frayne, Douglas. *The Royal Inscriptions of Mesopotamia, Early Periods, Volume 3/2: Ur III Period (2112-2004 BC)*. Toronto: University of Toronto Press, 1997.
4. George, Andrew. *The Babylonian Gilgamesh Epic: Introduction, Critical Edition and Cuneiform Texts*. Oxford: Oxford University Press, 2003.
この記事は、考古学的発見や歴史的文脈を基にウルのジグラートの重要性を学術的に解説しています。
さらに詳しい情報が必要な場合は、上記の参考文献を参照してください。
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