『水の運び手』と呼ばれた尖塔 。 ゲーテを魅了した聖堂をめぐる、もう一つの歴史

ストラスブール大聖堂はフランス北東部アルザスの地に屹立するヴォージュ山脈産の薔薇色砂岩で築かれた奇跡の建築である。人々が一つの尖塔を持った天使と讃えるその姿には約千年の歳月のなかで積み重ねられた無数の人間ドラマ、技術革新、信仰と政治のせめぎ合い、そして戦火をくぐり抜けた記憶が深く刻まれている。西正面の広場に立ち夕刻の光が石肌を金色から紅へとグラデーションさせてゆくさまを目の当たりにした者は誰しもがそこに実体を超えた何か長い時間そのものが持つ霊性のようなものを見出すに違いない。

大聖堂の歴史は十一世紀初頭のロマネスク教会に遡るが一二世紀末の大火を契機として十三世紀から本格的なゴシック再建事業が開始された。この再建の背景には当時のストラスブール司教と市政の実権を握りつつあった市民階級との激しい主導権争いが横たわっている。

市民たちは大聖堂を自分たちの手による象徴として位置づけ建設組合である「ウーヴル・ノートルダム」を組織し司教の権力から半ば独立したかたちで建築を進めた。これは他のゴシック大聖堂にはあまり見られない市民自治の息吹を宿す稀有な事例であり建設を支えた石工や彫刻家、ガラス工たちはギルドに守られながら労働者を超えた芸術家としての自負を持っていた。

その精神は当時の石工たちが自分たちの組合専用の印章を持ち主任建築家の肖像をバラ窓の近くにこっそりと刻み込んだ逸話にも表れている。西正面の彫刻群は、こうした彫刻家たちの競演の場であり特に賢い乙女と愚かな乙女の喩えを表した像群には当時の市民たちの身振りや服装が驚くほど写実的に反映されている。

これは聖書の寓話を単に教訓的に示すのではなく見る者に自身の日常を投影させるための仕掛けであり中世のストラスブールで流行した宗教劇の影響を色濃く受けているのである。身廊の設計に目を転じると、ここにはフランス古典ゴシックの合理的な構造力学と神聖ローマ帝国領土で発展した空間志向、身廊の高さよりも光による空間の包み込みを重視するドイツ的な感性が融合している。

特筆すべきは、その融合を可能にしたトリフォリウムの扱いである。通常、大アーケードと高窓の間に位置するこの通路状の層は初期ゴシックでは暗く閉じられることが多かったがストラスブールでは1250年頃から始まった建設の段階で光を通す壁として大きく開かれた。その結果、堂内には上中下の三層が溶け合うような光のハーモニーが生まれ訪れる者は重厚な石の存在感と同時に非物質的な光の幕に包まれているという逆説的な感覚を覚えることになる。そして大聖堂の代名詞とも言える北塔について語るには1439年の完成直後に起きた小さな奇跡に触れないわけにはいかない。この塔が完成した当時、ストラスブール市は慢性的な水不足に悩まされていた。塔の竣工を祝う祭りの最中、偶然にも近郊の水源から市街へ水を引く新たな水道橋の建設が始まり市民たちはこれを「塔が街に水の恵みを呼び込んだ」と受け止めて大喜びした。

以来、塔の守護聖人にちなみ塔の尖塔部分は聖母の冠と呼ばれると同時に水の運び手としても市民に親しまれているのである。南塔が建設されなかった理由として資金難がよく語られるが実際には十五世紀後半の政治的混乱や宗教改革の波によってウーヴルの組織力が弱まったことが大きく1439年に到達した高さそのものが「これ以上は人間の傲慢になる」という中世的節度感覚に抑制をかけた、とする見方もある。

その未完成の非対称性は逆説的にストラスブールの景観における最大の完成であり南塔の痕跡すらも歴史の層として今日の私たちに語りかけてくる。内部へ入り天文時計の前に立つと、その極小宇宙の精緻さに誰もが時間を忘れて見入ってしまう。現在見られる天文時計はジャン・バティスト・シュヴァルツによって1842年に完成した三代目だが、その設計思想の核心には1574年に数学者コンラート・ダジポディウスが製作した二代目時計の哲学が息づいている。

ダジポディウスは時計の機構を神の創りたもうた宇宙秩序の模型と捉え暦盤の上をゆっくり動く惑星たちの針に「人はいかに生き、そしていかに死ぬべきか」という倫理的な問いまで込めた。正午のからくりはキリストを訪ねる使徒たちの行列でありながら、そこに死神が十五分ごとに砂時計をひっくり返して人間の有限性を突きつけるという厳しい演出が加えられており、この時計がただの見世物ではなく中世末期からルネサンスにかけての死生観を結晶させた一種の哲学装置であることを物語っている。

ステンドグラスに目をやれば一三世紀の「最後の審判」を描いた南側廊の窓や皇帝ハインリヒ二世を描いた北側廊の窓といった傑作群がオリジナルのまま今も輝きを放っている。とりわけ貴重なのは西正面バラ窓の中心部に残る一三世紀末の断片である。このガラスに用いられている青色はコバルトを主成分とした「ストラスブール・ブルー」と呼ばれる特有の色調で原料のコバルト鉱石がどこから輸入されたかをめぐってはザクセン地方説とヴェネツィア経由の東方交易説が長年、学会で議論されてきた。

近年の成分分析では微量のマンガンが検出されており中世のガラス工房が色の深みを増すために意図的に添加した可能性が指摘されている。光がこのガラスを通過するとき内部空間にはまるで液体のような青が満ち石造りの重さが一瞬にして溶解し建築が物質を超えて光の芸術へと変貌する現場に立ち会うことになるのである。大聖堂をとりまく周辺環境にも長い歴史のなかで培われた独特の都市生態がある。大聖堂広場の周辺にはかつてウーヴル・ノートルダムに所属する職人たちの工房が軒を連ねていたが現在も広場に面した一角には「メゾン・カンメルツェル」をはじめとする十五世紀から十六世紀の木組み建築群が保存され当時の職人街の面影を今に伝えている。

大聖堂の塔を登る螺旋階段には壁面に夥しい数の落書きが刻まれており、そのなかには一七世紀の三十年戦争時に避難した市民の名や、十八世紀のフランス革命期に身を潜めた貴族の名が含まれている。こうした名も無き人々の筆跡は大聖堂がただ見上げるだけの記念碑ではなく時代の激流を生きた人々の匿いの場でもありつづけたことを物語っている。

第二次世界大戦中、ストラスブールがドイツ軍の占領下にあった時期、大聖堂は奇跡的に大規模な爆撃を免れた。市民たちはステンドグラスを一枚ずつ取り外して地下の塩坑に運び込み彫刻群を土嚢と木材で厳重に保護した。その綿密な防護計画を主導したのはアルザスの歴史や文化財に強い愛着を持つ地元の学芸員と技術者たちであり彼らの多くは占領当局の監視をかいくぐりながら命がけで文化遺産の疎開を遂行したのである。戦後、無事に元の位置へ戻されたステンドグラスが陽光を再び受け止めたとき広場に集まった市民のあいだから自然発生的に讃美歌が湧き起こったというエピソードは大聖堂が石材とガラスの集合ではなく、この街に生きる人々の精神そのものを映す生きた存在であることを如実に示している。

このようにストラスブール大聖堂の隅々には美術史の教科書には決して収まりきらない微細な物語の堆積がある。それは技術的な変遷の層序であり、水の奇跡の伝承であり、コバルト・ブルーの化学組成の謎であり、戦禍を生き延びた人々の祈りと記憶の痕跡である。

尖塔の先端に夕陽が最後の光を灯す瞬間、砂岩の薔薇色はあたかも大聖堂全体が呼吸しているかのような生命感を帯び和多志たちはその荘厳な沈黙のなかに千年にわたる無数の声の谺を聴くことができるのである。

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