~清朝軍事拠点から世界一危なスラムへ、そして抹消されるまでの200年完全記録~
序章 混沌のカプセルへの招待
あなたが「カオルーン」という言葉にゾクゾクするのは決して間違っていない。あれは単なる過去の遺物ではなく20世紀最大の都市伝説そのものだ。
東京ドーム半分弱の広さに5万人が詰め込まれ人口密度は東京の70倍。太陽の光が一切届かない通路、設計図なしに増築を重ねた結果生まれた3次元迷宮そこではアヘン窟、違法カジノ、無許可診療所そして死体処理業者が日常的に営業していた。
本稿では、この「九龍城砦(カオルーンじょうさい)」の誕生から終焉までを生々しく掘り下げていく。
第1章 清朝、海を見下ろす要塞を築く(1847年)
「目の上のたんこぶ」としての誕生 時は1847年、清の道光帝の治世。アヘン戦争(1840-1842年)で香港島をイギリスに奪われた清国は目の前の九龍半島に監視拠点を築くことを決断する。発案者は両広総督の耆英(きえい)
彼の奏折にはこうある。
「屯兵して練り声威を壮んにするのみならず夷巢(イギリスの巣窟)に逼り更に牽制を藉ることを得ん」つまり「イギリス人を牽制するために目の前に要塞を築く」という、あからさまな対決姿勢だった。完成した城壁は全長約199丈(約650メートル)高さ約6メートル。城壁には巨大な砲台が設置され、その射程は香港島の海面を完全にカバーしていた。
当時の城砦には約250名の兵士が駐屯し役人(九龍巡検司)が行政を執り、さらに「龍津義学」という学校まで併設されていた。これが後に「世界最悪のスラム」になるとは誰も想像していなかった。1898年、清政府はイギリスとの間に《展拓香港界址專條》を結び、新界地域を99年間租借することを認める。しかし清政府は九龍城砦だけは絶対に譲らなかった。交渉に当たった李鴻章は、こう主張する。
城砦だけは清の領土として残す、という「領事館のような特殊区域」が誕生したのだ。
しかし翌1899年、新界の住民がイギリス支配に抵抗して武装蜂起する「新界六日戦争」が勃発。イギリスは「城砦の清国兵が反乱を支援した」と難癖をつけ軍隊を派遣。たった数人の清国役人は逃げ出した。こうして城砦は「主人なき土地」と化す。その後、李鴻章が再度抗議しイギリス軍は撤退するが清の役人は戻らなかった。ここに「誰も統治しない土地」が誕生する。
第2章 「三不管」地帯への堕胎(1912-1945年)
無法地帯の胎動 辛亥革命(1911年)後、中華民国は形式上は城砦の主権を主張したが実際に統治する力はなかった。イギリスも「清と約束した特別区域」に手を出すことを躊躇した。こうして「中国も管轄せずイギリスも統治せず香港政府も入れない」という「三不管」の状態が確定する。
1920年代、広州や上海で政治混乱が起きるたびに難民たちがこの「法律の空白地帯」に流れ込んだ。当初は数百人だった人口が1930年代には約2,000人に増加。彼らは城壁内に簡易な家屋を建て始める。さらに1872年に香港政府がギャンブルを全面禁止したことで香港島の賭博業者が一斉に城砦に移転してきた。すでにこの時点で「違法ビジネスの聖地」としての体質が形成されつつあった。
1941年12月、日本軍が香港を占領。城砦にも当然のように日本軍が入ってくる。そして1942年から1943年にかけ日本軍は城砦の城壁を完全に破壊した。その石材は拡張工事中の啓徳空港の埋め立てに使用された。
この行為は皮肉なことに城砦の運命を大きく変えることになる。物理的な「城壁」が消えたことで人々はより自由に出入りできるようになり城砦の範囲は無制限に膨張していく。城壁に守られていた「軍事拠点」は、もはやただの「無法スラム」の原石へと変貌した。
第3章 戦後、絶頂期の地獄絵図(1945-1987年)
5万人が蠢く「立体迷宮」の完成 1949年、中国内戦で国民党が敗北し膨大な数の難民が香港に殺到した。彼らの多くは入国審査も家賃も不要な九龍城砦に流れ込んだ。さらに1950年代の韓国特需やベトナム戦争の影響で東南アジア全域から安い労働力を求めて人々が集まった。
人口は爆発的に増加する。
· 1950年代:約5,000人
· 1973年:約10,000人
· 1987年(清掃決定時):33,000人(一部資料では50,000人)
広さはわずか0.026平方キロメートル。サッカー場約4面分の土地に3万人以上が暮らすという世界最高密度の居住区が誕生した。城砦の建築には設計図も建築確認も存在しなかった。ただ一つのルールは「啓徳空港に近いため高さは14階まで」という航空法だけ。住人たちは自分たちの必要性に応じて勝手に建物を増築し隣のビルとつなげ通路を塞ぎ新たな通路を開けた。結果として以下のような「有機的に成長した都市」が完成する。
· 総棟数:約350棟(10〜14階建てが密集)
· 棟と棟の間隔:時には1メートル未満
· 通路:幅1〜2メートルの迷路。外から来た人は必ず迷う
· 日光:98%のエリアが24時間陽の光を一切受けない
驚くべきことに、これだけ無茶な建築でありながら城砦内で大規模な倒壊は一度も起きなかった。あまりに密に建物が寄り添い支え合っていたため一種の「三次元構造体」として機能していたのである。香港政府は正式には城砦に電力を供給していなかった。しかし実際には多くの世帯が電灯を使っていた。その正体は街灯からの「盗電」住民はプロの電気技師(もちろん無資格)を雇い外の街灯からケーブルを引き込んだ。その結果、城砦の上空は「スパゲッティのようになった電線」が覆い停電は日常茶飯事だった。もっと深刻だったのが水だ。城砦には本来、公共水道が存在しない。わずかに数本の「街喉(がいこう)」と呼ばれる公用水栓が設置されていたが、これらは完全にギャングの支配下にあった。
住民はバケツを持って街喉に並び一桶いくらで水を買わなければならなかった。買った水を重いバケツで10階、14階まで運び上げる。このため、低層階には富裕層(と言ってもスラムの中での話だが)が住み高層階に行くほど貧しい層が住んだ。さらに違法に水道管を分岐させた「私設水道」も存在したが、これもまたギャングの管理下で高い水料金を取られた。そして、これらの違法配管は常に水漏れを起こしており城砦内は一年中ジメジメと濡れていた。通路の天井からは水滴が落ち、足元は常にぬかるんでいた。
城砦の外縁部、通りに面した場所に並んでいたのが無許可診療所の看板である。中でも多かったのは歯医者だった。
なぜ歯医者か?
1. 香港政府公認の歯科医は非常に高額で一般人は通えなかった
2. 城砦内の歯医者は正規の資格を持つ中国本土の医師が香港の資格がないためにここで開業していた
3. 値段は表の半額以下『九龍城寨之圍城』の監督である鄭保瑞は子供の頃に姉を連れて城砦に歯医者に行ったエピソードをこう語る。
「家族が姉を連れて歯を治しに行ったんです。でも着いてその場所があまりに恐ろしくて、すぐに帰ってきちゃいました」
ピーク時には88軒の歯医者と76軒の内科医がひしめき合っていたという。また、その隣にはアヘン窟(煙窟)が154軒、風俗店が20軒、賭博場が5軒(表向き)という構成だった。ここまで書くと、まるで終始暴力が飛び交う修羅の国のように思えるが実際の住民の生活は異なる側面も持っていた。城砦には「街坊會」という住民自治組織があり、清掃や簡単な治安維持を行っていた。犯罪者は多くが外から来た者であり住民同士の間では顔見知りという安心感があった。
実際、住民同士の殺人や強盗は非常に少なかった。迷路のような通路と屋上は子どもたちにとっては最高の遊び場だった。
屋上には洗濯物が干され鉢植えが置かれ、そこで子供たちは宿題をし凧を揚げた。写真家のグレッグ・ジラードが撮影した有名な写真には猥雑な看板と電線の下で無邪氣に遊ぶ子どもたちの姿が写っている。
城砦内には、なんと60軒以上の魚蛋(フィッシュボール)工場があり、全香港のレストランの8割に魚蛋を供給していたと言われる。つまり、香港中の誰もが知らないうちに、城砦で作られた食品を食べていたのだ。この他にも、無許可の練り物工場、パン屋、中華まんの店などがあり、完全な「経済圏」が形成されていた。
驚くべきことに香港郵政は城砦内にも郵便を配達していた。郵便配達夫は迷路のような通路を記憶し各戸に手紙を届けていた。つまり「国家の存在を認めない」と言いながら郵便サービスだけは享受していたという極めて香港的な折衷だった。
第4章 崩壊の時、そして抵抗(1987-1994年)
1984年、中英両国は「香港返還」に関する共同声明に調印する。この中で中国政府はイギリス側に「香港返還までに九龍城砦問題を完全に解決すること」を求めた。つまり「返還後にこんな無法地帯を引き継ぎたくない」というのが本音だった。1987年1月14日、香港政府は突如、九龍城砦の全面清掃と再開発計画を発表する。約33,000人の住民に対する立ち退き補償と約500の事業者に対する補償がセットで提示された。
しかし、住民たちは簡単には動かなかった。
· 「ここは俺たちの家だ」
· 「補償額が少なすぎる」
· 「どこに行けばいいんだ」
特に高齢者や過去に犯罪歴があって表の社会に出られない人々にとって城砦は唯一の居場所だった。1989年から1990年にかけ第一陣の立ち退きが行われたが最後まで残った約50世帯が強制排除の対象となった。
香港政府は1994年春、最後の住民約50人に対する強制執行を決行する。1994年4月某日、早朝。100人以上のブルーカラー(防暴警察)が城砦を取り囲んだ。彼らはバールで違法建築のドアを破壊し中にいる住民を連れ出す。ある高齢者はベッドにしがみついて抵抗し数人の警官がかりで引きはがされた。女性たちは叫び、子たちは泣いた。その日の様子を伝える報道写真には段ボール箱に家財道具を詰め込まれ茫然と立ち尽くす老女、ブルドーザーに掴まれて廃墟と化していく自宅を見つめる男の姿が生々しく残されている。
住民たちは抗議の横断幕を掲げたものの、その訴えも虚しく重機の前では無力だった。こうして約150年にわたる城砦の歴史は物理的に終わりを告げた。
第5章 遺跡の発掘と「公園」への転生
建物の取り壊しが進む中、考古学者たちによる発掘調査が行われた。すると近代的なスラムの下から清王朝時代の城壁の基礎や南門の石段が完全な形で出土した。
特に貴重だったのが南門の上に掲げられていた石額(石碑)で「南門」と「九龍寨城」の文字が鮮やかに刻まれていた。これらはすべて保存され現在は公園内で見ることができる。1995年8月、城砦跡地は「九龍寨城公園」として生まれ変わった。設計コンセプトはなんと清朝の江南庭園。池があり鯉が泳ぎ中国式のあずまやが点在する、まったくの別世界である。
かつてのアヘン窟や違法歯医者のあった場所は、今は「葉の広がる木々とベンチのある憩いの場」だ。
公園内には、わずかに残された歴史的遺構がある。
· 九龍巡檢司衙門:城砦の中央政府だった建物。唯一完全に保存された。
· 南門の遺構:発掘された石段と城壁の基礎がそのまま展示されている。
· 龍津義学の碑文:かつての学校の名残。
最も貴重な記録はイアン・ランボットとグレッグ・ジラードによる写真集『City of Darkness: Life in Kowloon Walled City』である。彼らは清掃直前の数年、許可を得て城砦内に入り込み、住人たちの生活を徹底的に記録した。
その写真には以下のような「日常」が写っている。
· 屋上で洗濯物を干す女性
· 真っ暗な通路で麻雀に興じる老人たち
· 魚蛋工場で働く無帽の労働者
· 迷路のような階段を駆け上がる子供たち
· そして、どこを見ても張り巡らされた電線と、滴る水
これは「罪悪」の記録であると同時に「人間はどんな環境でも生きていける」という生存の記録でもあった。
第6章 現代に生きる「カオルーン」
九龍城砦が消えた後も、そのイメージは世界中のクリエイターを魅了し続けている。『ブレードランナー』(1982年)リドリー・スコット監督は未来都市のモデルとして九龍城砦のイメージを採用したと言われる。空中に張り巡らされた配管、ネオン、混沌とした街並みは、まさに城砦のそれである。
『天空の城ラピュタ』(1986年)宮崎駿監督は直接「モデルにした」とは明言していないが廃墟と化した城に大樹が絡まり迷宮のような内部構造は多くの人が「カオルーンを思い出す」と語る。特にラピュタの空中庭園を守るロボット兵の孤独は城砦の屋上で遊ぶ子供たちの姿とどこかシンクロする。
2024年、ついに九龍城砦を本格的に再現したアクション映画が公開された。監督は鄭保瑞。彼は子供時代に実際に城砦の歯医者に行った恐怖体験を持つ。映画では当時の写真や資料を基にスタジオ内に実物大の城砦の一部を再現。迷路のような通路、無数の電線、街喉、そしてあの猥雑な看板の数々が現代に「復活」した。この映画の影響で香港では「九龍城寨ツアー」が盛り上がり2025年10月には香港政府観光局が公式に「九龍城寨光影之旅」をスタートさせた。
終章 闇の遺産が語るもの
九龍城砦は、なぜこれほどまでに人を惹きつけるのか。それはおそらく「人間の欲望が法律も規制もない状態で放置されると、どうなるか」という究極の実験結果を見せてくれるからだ。欲望はアヘン窟や賭博場となって噴出し生存欲は魚蛋工場や無許可診療所という「経済」を生み出しコミュニティ欲求は街坊會という自治組織を誕生させた。そして、家族愛は、あの薄暗い屋上で洗濯物を干し子どもたちに勉強を教える母親の姿を生んだ。「悪」と「生」が、あの狭い空間に濃縮されカオス状態で共存していた。
それが九龍城砦という存在の本質である。
1994年に最後の住人が連れ出され重機が壁を壊したとき世界は一つの「生きた実験」を失った。しかし、その記憶は写真や映画、ゲームの中で今もなお人類に問いかけ続けている。
「お前たちは本当にこっち側の人間か? それとも、あっち側の人間か?」
【附録】九龍城砦 完全データ
項目 内容
正式名称 九龍寨城(Kowloon Walled City)
所在地 香港九龍半島東北部、啓徳空港隣接
面積 約0.026 km²(清掃直前)
人口 最大時 約50,000人(公式には33,000人)
人口密度 約1,900,000人/km²(世界最高)
棟数 約350棟(10-14階建て)
建設期間 1847年(清) – 1994年(解体)
統治状態 1847-1899:清国 / 1899-1941:無政府状態 / 1941-1945:日本占領 / 1945-1994:無政府状態(三不管)
主な産業 魚蛋工場(60軒)、無許可歯科医院(88軒)、アヘン窟(154軒)、賭博場(5軒以上)
清掃開始 1987年発表、1991年本格着手
強制排除 1994年4月
跡地 九龍寨城公園(1995年開園)
参考文献『黑暗之城 九龍城寨的日與夜』(Ian Lambot & Greg Girard)香港政府、各新聞報道、現地インタビュー記録
この記事が、あなたの「カオルーン城西」への探求心に少しでも深みを与えられたなら幸いである。







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